第29章 あたら夜《弐》
拾い上げた小さな命を、全て足場の草陰に返す。
ぱんぱんと軽く手を叩き幼虫を見守る槇寿郎の横顔には、先程までの圧を感じなかった。
ほ、と肩の力を抜いて蛍が口を開く。
「あの…槇寿郎さん」
「…なんだ」
声をかければ、ぶっきらぼうだが確かに応えがある。
緩みそうになる口元を引き締めて、腰を上げて再び目線の高くなる槇寿郎を見上げた。
「ありがとうございました。触ってみたはいいものの、放し方がわからなくなっていて…」
「だったら最初から触れるな」
「…はい」
ご尤も、と言いたくなる返しに頷くしかない。
「でも、お陰で知ることができました」
「?」
「槇寿郎さんの手が、優しいこと」
クロマドボタルに触れた手は、生き物に触れることを知っていた。
最初に出会った時から、槇寿郎の手は杏寿郎の顔を殴り飛ばし、襖を拒絶するように閉め、蛍の体も無造作に扱った。
(でも、あの晩酌の日は優しかった)
しかし蛍が鬼だと知る前は、自分の羽織を着せてくれたり、知らない洋酒に進んで口をつけたり、槇寿郎なりに歩み寄ってくれていたことを思い出す。
陽に炙られ、体を痛め付けられた記憶の方がどうしても強烈で勝ってしまうが、蛍の目にも確かに槇寿郎の優しさは垣間見えていた。
「だったらなんだ。そんな安い褒め言葉で態度を変える気はないぞ」
「あ、はい。心得てます」
あの杏寿郎が十年間、埋められなかった溝なのだ。
簡単に歩み寄れるとは思っていない。
「私に槇寿郎さんが厳しいことは重々承知です」
「でも、だから」と付け加えて。
「今日は沢山お付き合いして頂きありがとうございました」
何気ないこの瞬間が、とても貴重で大切なものだと実感するのだ。
「今日一日だけで、たくさんの初めてを貰えました。すごく楽しかったです」
「…お前の為に同行したんじゃない」
「はい。でも、嬉しかったんです。…こういう時間が、きっとしあわせなんだろうなって」
「ただの祭り事がか。簡単に手に入る幸せだな」
「それでいいじゃないですか」
愛するひとがいて、家族になりたいひとがいて、歩み寄りたいひとがいて。彼らとその時しか見られない風景を共に楽しむことができる。