第29章 あたら夜《弐》
「千くん、言葉と顔が合ってない…っ」
「あははっごめん、なさい。姉上がなんだか可愛くて…っ」
「出た。煉獄家は可愛いって思うと爆笑する家系なの? ねぇ杏寿郎」
「うむ、返す言葉がないな…ふ、くく」
「! 杏寿郎までッ」
「いやすまん。君の足が小鹿のように震えていて愛」
「いなぁとか思ってないからその顔は面白がってるだけだからッ」
ぷるぷると蛍の足が小鹿のように震えているのは確かだ。
言った自分がツボだったのか、顔を逸らして笑い堪える杏寿郎に蛍の声が尚も震え上がる。
幻想的な美しい景色を見ているはずだというのに、思わず脱力してしまうこの光景はなんだ。
先程まで緊迫していた空気も何処へやら。
槇寿郎は深い溜息を一つつくと、収拾のつかない空気に踏み出した。
「…ぁ」
ふっと、蛍の顔に影がかかる。
見ればすぐ目の前に槇寿郎の姿があった。
部屋に引きこもった生活をしていると言っても、いつ何処で鬼に狙われるかわからない覚悟もしているからか。成熟された肉体は鍛え上げられた名残を残しており、杏寿郎と同じ金輪の双眸は視線だけで圧を感じる。
思わず零れ落ちた声は言葉にはならず、ぬっと伸びる槇寿郎の手が視界を覆い蛍はびくりと体を震わせた。
「っ」
反射的に目を瞑るその姿に、伸びた手が止まる。
蛍の心と肉体を搾取したのは人間であり、またその過去を蹂躙したのは我欲に塗れた男達だった。
つい先程杏寿郎から聞いた話を思い出す。
過去は過去。
現在(いま)は現在(いま)。
そう杏寿郎には告げたが、人の心が言葉だけで前に進めないことはよく知っている。
何より亡き妻の過去に縋り付いて生きている自分なのだから。
「…くだらん」
声を幾分静めて吐き出す。
「怖いと思うなら無暗に手を出すな。虫だって命を持っている。感情は伝わるものだぞ」
伸ばした手はゆっくりと蛍の視線の高さから下がり、皿にした掌に辿り着いた。
潰さない力でクロマドボタルの幼虫達を摘まみ上げていく。
「見て楽しむ分なら触れずにできるだろう。命を安易に弄ぶな」
「ぁ…す、すみません…」