第29章 あたら夜《弐》
そしてその身を陽に炙り、千寿郎から引き離そうとした時もまた。
鬼の恐怖を知っているなら、強者に蹂躙される恐怖も知っているはず。それを千寿郎に向けないで欲しいと懇願してきた。
早々には消えない火傷を負い満身創痍でありながら、それでも蛍は槇寿郎に頭を下げたのだ。
鬼と人だけではない。
人と人もまた、蹂躙される恐怖は同じなのだからと。
「蛍はその恐怖を知っています。…それを父上の手により思い起こさせたくはない」
そこで初めて、杏寿郎の凛々しい眉がくっと眉間に皺を寄せた。
「蛍は言葉を交わせる鬼です。どうか拳ではなく、言葉で蛍と繋がってあげて下さい。…父上の拳を、無暗に汚さないで下さい」
頭を下げて懇願する。
その姿は、千寿郎を守ろうと、焦げ付いた頭を下げて懇願したあの日の蛍と同じだった。
その恐怖を知っているからこそ、止めて下さいと懇願していた蛍と。
身をもって知っているから止めるのだ。
千寿郎のことを心から案じ、同じに傷付いて欲しくはないと強く願った。
それともし、今の杏寿郎が同じ姿なのだとしたら。
「……」
彼も知っているのではないか。
無情な暴力に打ちのめされる絶望を。
言葉を交えられず、拒絶だけを向けられる虚脱感を。
深く頭を下げる息子の姿から目が逸らせない。
強いくらいに陽の力が強い息子とばかり思っていた。
それこそ表面上のものだけを見て判断していたことだ。
『私が死んだら、杏寿郎さんの胸に、また穴を空けてしまいます。瑠火さんを失った時に、一度空いた穴を』
そんな強い杏寿郎の顔の下にある柔い心を、あの鬼はよく知っていた。