第29章 あたら夜《弐》
「傷は瞬く間に治ります。痛みを痛みと感じないままに再生していく。暑さも寒さも、疲労も睡魔も。本来人が感じられる凡そのことを蛍は感じられなくなりました」
多少の季節の体感や疲労はあれど、人のそれとは訳が違う。
常に小窓が開いている牢獄の中で数年生きた蛍は凍死などしなかったし、人並みの鬼の食事さえも摂らず飢餓状態でいても栄養失調で死にはしない。
「苦しむことはあっても死ぬことはない。そうして極限の中で痛覚を麻痺させていった結果、体の痛みだけでなく心の痛みさえも忘れるようになりました」
花街で体を重ねたあの夜。
杏寿郎に指摘されるまで、恐怖というものを実感していなかった。
あれは怖かったのだと、改めて感情を拙く拾い上げる蛍は、まるで落としてきた心を一つ一つ見つめ直しているようだった。
「忘れていくのは、その身に傷を負っては再生を繰り返していたからです。幾度も重ねた傷はただの経過となり、慣れた体は感情を失くした。それは何度も蛍がその身に刃を受けていたからです」
何度も何度も、その身に毒を盛られ刃を突き立てられた。
幾度も幾度も、時に骨を折り筋を断たれた。
時には体を粉々に吹き飛ばされ、全身を火炙りにし、太陽光の無情な拒絶も受けた。
それらは全て、
「その身を引き裂く刃は全て、鬼ではない。人である俺達が向けてきたもの」
相手は鬼だからと。
傷付けてもどうせ治るのだからと豪語する者達の手にって成されてきたことだ。
「蛍の体だけでなく心まで鬼にしようとしたのは、鬼舞辻無惨でも彼女自身でもない。周りの人間です」
静かに杏寿郎が告げるその事実は、槇寿郎の動きを止めた。
鋭い双眸は見開き、言葉を発さない唇は半端に開いたままだ。
言葉が出なかった。
人である蛍の心までも鬼にしようとしたのは、他ならぬ人間なのだと告げられて。馬鹿馬鹿しいと否定ができなかった。
蛍の体を押さえ込み、陽に炙らせたのは他ならぬ槇寿郎自身だ。
あの時、血鬼術を発動させて消し炭のような異様な出で立ちを見せた蛍は正に鬼そのものだった。