第29章 あたら夜《弐》
不快な理由。
それを問いかけられて、槇寿郎は咄嗟に答えられなかった。
否定も抗いも不満も口に出せずに唇を結ぶ。
カッと頭に血が昇り、気付けば蛍の顔を壁に押さえ付けていた。
その発端は、蛍が千寿郎の体液を口にしたと聞いたからだ。
それ以前にふつふつと苛立ちが生まれていたのは、杏寿郎の血を飲んでいると聞いたからだ。
強い不快感を露わにした理由。
それは息子達が鬼の餌になっている実態だった。
「…不快なことを口にしたから黙らせた。それだけだ」
そうとは言えずに顔を逸らす。
「それは手を出す程のことだったのですか」
「そうだ」
「蛍は俺と違って身の程知らずな言葉など吐きませ」
「つべこべ煩いぞ。俺には不快だった、それだけだッ」
食い下がらない杏寿郎に、いい加減にしろと槇寿郎の声が荒ぶった。
それ以上高まっては、離れた所で蛍鑑賞を楽しんでいる二人にも届いてしまう。
ぐ、と握った拳と同じく唇を強く結ぶと、杏寿郎は深く息をついた。
深呼吸をして滾りそうになった感情を押しとどめる。
そこまで槇寿郎を不快にさせた蛍の言葉とは。
内容が気になったが、それはもう訊かないと告げたばかりだ。
「…蛍は確かに、誰がなんと言おうと鬼の身です」
それでもこのまま沈黙する訳にはいかなかった。
自分の知らないところで蛍が父の拳を受けた。
それを知って見て見ぬフリができる程人間が出来ていても、また腐ってもいない。
「ですが人の心を忘れていない。自分が人間だった頃のことを鮮明に憶えています。己の世界の全てだった姉君のことも。平凡な男の力にも勝てない、非力な己であったことも」
強く握りしめていた拳をゆっくりと解き開く。
「それでも時は進む。世界は回る。鬼と成った彼女の身体だけの時を止めて。日々周りは変わり続ける」
鬼と成ってから、今の蛍らしさを取り戻すまで確かに時間はかかった。
数年、共に歩み続けたからこそわかる。
その数年の間に姉の死を受け入れ、己を死に追いやった男を生かすことを許せるようにまでなった。
蛍の心は少しずつでも人間として成長している。
それと同時に、止まってしまったものもある。