第29章 あたら夜《弐》
勿論、鬼殺隊の家系故に迷いがなかった訳ではない。
しかし瑠火を今後一生愛するものとして抱きしめた時に、そんな迷いなど抱え続けてはいなかった。
何より彼女を不安になどさせない為に。
己の全てで守っていこうと誓ったのだ。
「そうでしょう」
槇寿郎は何も答えなかったが、その目だけでわかると杏寿郎は微笑んだ。
父が息子を知るように、息子もまた父のことはよく知っている。
自分自身よりも家族の為に生きようとする、大きな愛を持った人だ。
「では俺も父上に一つ質問をしてよろしいでしょうか」
笑顔は携えたまま、ちらりと杏寿郎が視線の端で蛍と千寿郎の距離を確認する。
「本日、夕刻前に蛍が父上の下を訪れなかったでしょうか」
再びこちらへ笑顔を向けると、まるで見ていたかのような問いを投げかけてきた。
「…何故そんなことを訊く」
「少し気になったもので」
「あの鬼が何か言ったのか」
「いいえ、何も」
「だから問いかけているのです」と理由を述べて、杏寿郎は静かな声で淡々と続けた。
「見かけた時、蛍は顔に施していた化粧を大いに崩していました。本人は転倒した所為だと言っていましたが、身体能力は甘露寺のように高い。誰かを庇ったのならまだしも、普段は受け身も取れないような転倒は早々しないはずです」
最初は蛍のその言葉を素直に呑み込んだ。
何かしらあれど、蛍が言いたくないのなら深く追うまいと。
しかしただの疑問が不可解な確信の切れ端に変わったのは、寺院の屋根の上で蛍に糧を与えた後だった。
『蛍、唇の紅が…』
『ん…? あ、取れちゃった?』
『うむ』
『ふふ』
『?』
『杏寿郎の唇にも付いてる。私の紅』
『む』
『取ってあげるね』
情事の乱れで掠れた紅。
杏寿郎の唇に移ったそれを丁寧に指先で拭いながら、蛍自身も己の唇を拭った。
指の腹と、覗く舌先でゆっくりと。
艶やかにも見えるその仕草に一瞬目を奪われたが、濡らすことで綺麗に紅の名残が消えたことに感心もした。
化粧など男には無縁のものだ。
だからこそ気付かなかったことを知ったことで、回転の速い杏寿郎の頭は疑問を結び付けた。