第29章 あたら夜《弐》
「母上の記憶を辿り見た羽衣を、実現させて俺と千寿郎の前で舞ってみせてくれました。また鬼である少年の心の傷口を覗いたが故に、己の記憶を投げ打ってでも少年に寄り添い、救いの道を探そうとしました」
千寿郎の時もテンジの時も。
人であっても鬼であっても。
幼い彼らに対する蛍の姿勢は何も変わらなかった。
「蛍にとって他者の記憶を視ることは、他人の心を裸足で蹴散らすことではない。心の底から慈しみ、敬意を持って向き合おうとする。…だから千寿郎もあの鬼も、蛍に心を開いたのだと思うのです」
「…口先だけではなんとでも言える。事実、俺はその鬼の子供とやらは知らん」
「では俺の話をしましょう。俺は蛍が母上の記憶を辿っていたことを、目の前で羽衣の舞を見て初めて知りました。それでも母上の記憶の詳細を一度も蛍から聞かされていません。訊けば答えてくれるでしょうが…今後も彼女から無暗に口にすることはないでしょう」
「……」
「母上の心を"個"として大切にしてくれています。また俺と千寿郎の約束という"結び"も大切に思ってくれました。…俺はあんなにも人の心を想える鬼を、知りません」
射貫くような強い力を持つ杏寿郎の双眸が、ふと和らぐ。
その視線の先にはいつも一人の鬼がいる。
ようやくその横顔を、槇寿郎は間近で目を逸らさずに見ることができた。
知らない息子の表情を、ようやくこれもまたこいつの一面なのだと思い知るように。
「数多の鬼を見てきた父上は、知っていますか?」
柔い視線が蛍から移り変わる。
穏やかな問いかけは、凡そ杏寿郎らしくもない。
肩透かしを感じるように、槇寿郎は這っていた肩の力を抜いた。
「…知らんな。人間と共に生きたいなどと言う鬼は」
何故杏寿郎の問いかけに答えようなどと思ったのか。
その理由に至る前に、口は自然と開いていた。
沢山の悪鬼の頸を斬り落としてきたが、一度だってそんな戯言を口にする鬼はいなかった。
それが槇寿郎の見たこの世の現実だ。
人間は餌であり、玩具であり、欲の捌け口。
鬼にとって人間は等しく皆そうだった。