第29章 あたら夜《弐》
杏寿郎は話してくれていたはずだ。口煩い程に。
自分のことも、千寿郎のことも、鬼殺隊のことも。
新しく迎えた継子となる女性が、中々に努力家で支えていきたいと志を持てたことも。
ただその全てに耳を貸さなかっただけで。
「千寿郎も母上の話にはとても興味を持って聞いてくれていました。だから約束をしたんです。いつか共に、母の好いた能楽を観に行こうと」
実の夫であり父ともなる自分より、兄弟である二人の方が幾度も言葉を紡ぎ合わせ、亡き母の思い出を辿っていたのだ。
「しかしその頃既に千寿郎も己の立場を考えるようになっていて…曖昧に断られてしまいました。鬼殺で多忙な兄の邪魔はできない。その約束だけで十分だと」
生き生きと語っていた杏寿郎の声に、僅かに陰りが生まれる。
「まだ十程の子供です。そんな千寿郎に、笑顔で我慢することを覚えさせてしまった。…だから必ずいつかその約束を果たそうと思っていました。不可能なことではない。願えば実現するのだと」
「……させたのか」
ぼそりと囁くような、先を促す問い。
その言葉をしかと耳に捉えて、再び槇寿郎へと視線が向く。
今度はきらきらと喜びの光を称えたものではなく、眉尻を下げると我慢ではない苦笑を杏寿郎は見せた。
「俺ではなく、蛍が約束を繋いでくれました。不甲斐ないです」
「あの鬼に?…一体何を…」
「蛍の血鬼術は先程見たでしょう。影を媒体としたものです。それらを自在に操り、戦闘も可能とする。朔ノ夜と名付けたあの影魚は、その中でも特殊な能力を持っています。──人の記憶に触れることができる」
「記憶…?」
「蛍が触れたのは、我が家にある古い風鈴でした。そこから母上の記憶を視たと思われます」
「な…っ風鈴など、そんな物に人の記憶など…っ」
「はい。俺も蛍に会う前ならば同じことを告げたでしょう。しかし蛍にはどうやらそれが可能らしいのです。人智を超えた力──それが鬼の脅威」
がばりと体ごと向けて驚きを隠せない槇寿郎に、杏寿郎も静かに向き合う。
真剣に語っていた表情が、不意に和らいだ。
「しかし蛍のそれは、いつも優しさの形となるのです」