第29章 あたら夜《弐》
無論、肩書きだけの結果ではない。
蛍が蛍であった為に、千寿郎が千寿郎であったが為に、今の二人の絆ができたのだ。
「俺はそんな二人の繋がりが、とても愛おしいんです」
優しい横顔だった。
兄のような顔でありながら槇寿郎の知らない表情も見せる杏寿郎は、真っ直ぐに蛍と千寿郎だけを見つめている。
その視線を辿るように、やがて槇寿郎も鋭い眼孔を前方へと向けた。
「…羽衣の舞と言ったな」
ぼそりと、それは唐突に。
いつもは悪態ばかりつく槇寿郎の口が、その日初めて問いかけるように動いた。
「千寿郎が口にした言葉だ」
「……」
「あれはどういう意味だ」
「……」
「…? おい、なんとか言ったら──」
先程まで流暢に話していた杏寿郎の声が聞こえない。
声が届いていない訳でもないだろうに。
一体なんだと槇寿郎が再び目を向ければ、そこには無言できらきらと澄んだ瞳を向けてくる息子がいた。
「っなんだその顔は」
「久しぶりに父上から話題を振って下さった気がしたものでっ」
「ただの疑問だ、話題でもなんでもないだろうっ」
いつもの槇寿郎なら、眩い程の杏寿郎の陽の気に背中を向けていた。
しかし今回は、自ら口にした疑問を保留にはできなかった。
「それより知っているのか知らんのかっ」
何故なら、その舞の名は瑠火の思い出深いものだったからだ。
「はい、勿論知っています。"天女の羽衣"。母上が特に好いていた能楽です」
「!…知っていたのか」
「母上が教えてくれました。それからは俺も能や歌舞伎に興味が湧いて、芝居を観ることが趣味の一つとなりました」
「……」
「相撲観戦を観るのも好きですね」
いつもより穏やかな声ながら、語る杏寿郎の顔は生き生きとしている。
それよりも杏寿郎が芝居や観戦に興味があったことを槇寿郎は知らなかった。
否。聞いたことはあったかもしれない。
帰省する度に、やれ何処どこの何が楽しかっただとか、美味しかっただとか。土産話をこれでもかと杏寿郎は楽しげに伝えてきたからだ。
しかしいつもその賑やかな声に背を向けたまま、馬鹿馬鹿しいと聞く耳を持たなかった。