第29章 あたら夜《弐》
「…僕、やっぱり兄上にとっての姉上のようなひとは、中々見つけられないかもしれません…」
「え。な、なんで? 急に」
「それは困るな。千寿郎にはぜひ家族を作って欲しいのだが…いやまだ早いな。今は困らないからそのままでいいんだぞ。千寿郎」
「待って杏寿郎気持ちはわかるけど今はお兄ちゃん心を閉じてて。話ややこしくなるから」
「む。」
ぽそぽそと千寿郎が告げたのは、蛍の予想していなかったものだった。
焦り気味に一歩踏み出せば、隣で笑う杏寿郎がいつもの兄っぷりを発揮する。
その意見には賛同できるところもあるが、つき合っていていは話が進まない。
蛍が今目を向けているのは幼い少年の心だ。
じっと視線で語り掛けるも、俯く千寿郎とは重ならない。
それでも先に動いたのは千寿郎だった。
小さな拳が俯く目元を擦り上げる。
「だって、姉上ほど僕の心を満たしてくれる女の人は、知らないから」
「……千くん」
いつもならおどけて照れ隠すところ、蛍は小さな声で紡ぐその感情に静かに耳を傾けた。
いつもなら闊達な声で嬉々として割り込んでくる杏寿郎も、口を閉じたまま静かに見守っている。
「なんで、姉上はこんなにしてくれるんですか…羽衣の舞の時も」
羽衣の舞。
亡き瑠火がいたく気に入っていた能の名に、ぴくりと槇寿郎の指先が反応を示す。
「なんでそんなに一生懸命になってくれるんですか」
「ぃ、一生懸命に見えちゃった? はは…もう少し手際良くできればよかったんだけど」
思わず苦く笑えば、ぶんぶんと千寿郎が無言で頸を横に振る。
そんな幼い感情の吐露も。微かに震える声も。目元を擦る仕草も。俯く小さな姿でさえ愛おしい。
けれど今はその顔が見たくて。
「でも理由なんて単純だよ」
さくりと短い草の絨毯を歩んで、蛍は握る拳をそっと両手で包んだ。
「大好きな大好きな千くんが、喜ぶ顔が見たいから。それだけ」
優しく甘く囁く響きに導かれるように、俯いていた顔が上がる。
涙の跡はない。
しかし今し方濡れたかのような金輪の瞳を間近に見つめて、蛍は頬を緩めた。
「だから千くんの今の素直な表情もとっても好きだけど。笑ってくれたら、もっと嬉しいかなぁ」