第29章 あたら夜《弐》
「杏寿郎が誘ってくれたから。蛍を見に行こうって」
蕎麦屋の二階で。
互いに感情を剥き出してぶつけ合ったあの夜に、共に見に行こうと約束した。
「夏の蛍は、杏寿郎と約束したから。秋の蛍を、千くんに見せたいなって思ったの」
「僕、に?」
「知っていたのか? 秋蛍なるものがいることを」
「偶々知れただけだよ。静子さんがね、教えてくれたの」
『まあっ蛍を? それは素敵ですね。蛍なら夏夜にこの村でも見かけることができますから』
『本当ですかっ? よかった』
『来年の話になってしまいますけれど』
『ちょっと遠いけど、楽しみに我慢します。だから大丈夫』
『…秋蛍ならこの季節にもお見受けできますわ』
『え? あっ』
『お母様』
伊武家に訪問した際に、駒澤村で蛍が見られる所があるのかと蛍が問えば、杏寿郎との話へと移り変わり八重美は自分のことのように楽しんだ。
二人して会話を弾ませていると、静かに助言を挟んだのが静子だったのだ。
「千くん、夜のお出かけってあんまりしたことないって言っていたから。お祭りだけでも十分だったけど、何か特別なことができたらいいなぁって」
蛍が杏寿郎と夜中の中庭で水遊びをしてしまった話を、千寿郎は驚きながらも羨ましそうに聞いていた。
きっと凄く楽しいのでしょうねと、子供らしかぬ穏やかな顔で笑ったのだ。
その表情に微かに影を作っていたことは、蛍の記憶にも残っていた。
「秋蛍、初めてだった? だったら嬉しいな」
軽く頸を傾げて笑う。
蛍の問いかけに、千寿郎はきゅっと唇を噛み締めた。
蛍は、花火を共に観られなかった償いに此処へ連れて来た訳ではない。
最初から千寿郎を連れて来ようと思っていたのだ。
静子からの手紙を熱心に読み込んでいたことも。
槇寿郎の激昂を受ける可能性を持ってしても、血鬼術を使用したことも。
全ては、太く強い絆で繋がっている杏寿郎の為ではない。その弟である千寿郎の為に。
「…っ」
幼い金輪の瞳の奥が、つんと熱くなる。