第29章 あたら夜《弐》
「っと。大丈夫? 千くん」
「不安定なら掴まっていなさい」
左右から強い力でぐっと引き上げられ、転倒するはずだった幼い体は爪先立ちでもなんなく安定していた。
「は、はい。ありがとうございます」
ぎゅっと左右の手を握り締めて、改めて足を着ける。
床はふわふわのシャボンだというのに、踏みしめても割れる気配はない。
少しぷよぷよとした柔らかい感触は不安定だったが、全く立てない訳でもない。
杏寿郎と槇寿郎は柱ともあってか、体幹を揺らすことなくシャボンの中に立っていた。
「ふーむ、これは圧巻だな! 千寿郎、周りを見てみるといい」
「わ…あ」
足元ばかり見ていた千寿郎を、杏寿郎が笑顔で誘う。
言われるがままに顔を上げれば、そこには千寿郎の知らない世界があった。
透明なシャボンの内側から見る景色。
外側から見る角度が違う所為か、視界に鮮やかな虹色の反射は入ってこない。
透明な薄い膜越しに広がる世界は、あんなにも賑やかだった祭りの光りが小さく広がっている。
点々と一つ一つの光りが集まり、まるで小さな島のようだ。
「あの場にいる時は、凄く広いものだと思っていましたが…」
「うむ。己にとって世界の全てだと思っていたものも、視点を変えれば大したものではないと知ることができる。逆もまた然り」
「逆?」
きょとんと見上げる千寿郎に、同じく世界を見渡していた杏寿郎が視線を下げる。
「なんてことはないはずだった一人の存在が、己の世界の全てとなることも、だ」
その目は千寿郎を向いているものの、柔く下がる眉尻に細められる瞳。
誰を想って口にしているのかは訊かずとも千寿郎にも理解できた。
「…俺にも、そんなひとができるでしょうか」
「む?」
気付けばそんなことを問いかけていた。
兄として、鬼殺隊として、煉獄家の嫡男として。そんな顔しか知らなかった杏寿郎が、初めて見せてくれた表情(かお)。
自分もいつかそんな柔らかい声で、優しい瞳で、世界の全てだと語れるひとができるのだろうか。
「ああ、できるとも。千寿郎なら必ず」
迷う様子もなかった。
深く頷く杏寿郎の手が、幼い頭を撫でられない代わりにしかと握り直す。
「お前は人とも鬼とも通じ合える、優しい心を持っているのだから」