第29章 あたら夜《弐》
「それで此処に何があるんだ!?」
「兄上、目的地はまだ先みたいですよ」
「此処ではないのかっ?」
わくわくと千寿郎以上に期待に満ちた表情を見せる杏寿郎に、対して蛍はあまり良い顔はしていなかった。
少しばかり緊張した面持ちで、自身の足元を見下ろす。
「──おいで」
小さな呼びかけだった。
しかしその僅かな音色をしかと聞き取った蛍の足元の影が、とぷりと微かな波を打つ。
「それは…」
声を上げる千寿郎の目に映ったもの。それは蛍の足場の影から緩やかに浮き上がる、黒い金魚だった。
千寿郎が初めて見た時のような巨大な姿はしていない。
蛍の掌に乗る程の大きさで、しかし千寿郎が掬い取った本物の金魚よりは立派な姿をしている。
「朔ノ夜。私の血鬼術」
蛍が掌を胸の前で上に向ければ、ひらりと羽衣のような鰭をなびかせて金魚──朔ノ夜が乗る。
乗ると言っても、掌の上でふわふわと浮く姿はどう見てもただの金魚ではない。
「挨拶して」
蛍の呼びかけに、頭と呼ばれる箇所を垂れるように下げる。
小さな朔ノ夜のその目は、他でもない槇寿郎に向いていた。
「血鬼術、だと…」
「話しませんでしたか? 父上」
驚きを隠せない槇寿郎とは正反対に、杏寿郎の声は冷静且つ穏やかなものだった。
「あの朔ノ夜こそ、駒澤村を守ってくれた蛍の血鬼術です。俺にも千寿郎にも害を向けたことはありません」
「さくのよ…と言うのですか? 姉上」
「うん。千くんに教えてもらった朔の日にちなんで名付けてみたの。どう、かな」
「そうなんですね…っとても素敵な名前だと思います、朔ノ夜」
蛍と交わしたその名の由来を千寿郎も憶えていた。
自分の知識の中から生まれた名だと知れば愛着も湧く。
笑顔で千寿郎が名を口にすれば、こぽりと小さな気泡のような音を立てて朔ノ夜は扇のような尾鰭を揺らした。
ひらりと一度。
まるで返事をしているかのような姿に、ぱっと千寿郎の顔も明るくなる。