第29章 あたら夜《弐》
「…っ」
蛍もまた槇寿郎を見上げたまま、ごくりと喉を鳴らす。
(血は、飲んでない。から大丈夫な、はず)
しかし蛇に睨まれた蛙のように微動だにできない。
(身形だって、綺麗にしたから。大丈夫な、はず)
誰かの血を啜ってきたと勘違いされるよりも、杏寿郎と体を重ねてきたと疑われる方が余程居た堪れない。
だからこそ髪も着物も化粧も、しっかりと身嗜みは整えてきた。
『君の唇を奪い過ぎてしまったな…』
『ん…じゃあこれ』
『?』
『杏寿郎が塗ってくれる?』
度重なる口付けですっかり紅の剥がれてしまった唇を、申し訳なさそうに杏寿郎が親指の腹で触れる。
その手に蛍が差し出したのは、譲り受けた瑠火の貝殻紅。
慣れない手つきながらも、優しく唇を愛でるように杏寿郎に紅を乗せてもらった。
杏寿郎は己の出来を「蛍には及ばない」と信用していなかったが、蛍には十分満足のいくものだった。
その指で、想いと共に乗せられた仄かな薄紅色。
槇寿郎の目に止まる程、変な形には彩られてはいないはずだ。
「父上。そんなにも蛍のことを見つめられると俺が妬いてしまいます」
蛍の肩を掴む槇寿郎の手の甲に、同じに分厚い掌が乗る。
ぽむち、と柔らかい動作で手を置いたのは笑顔のままの杏寿郎だ。
「ッ誰が見つめてなど…!」
「そうですか。それは安心しました!」
杏寿郎の陽の空気には、槇寿郎は瞬く間に背を向ける。
今回も等しく、手を引っ込めると早々に蛍から身を離した。
途端に場の空気が砕けたものへと変わる。
杏寿郎の素早い機転に内心感謝しながら、同時に蛍はほっと胸を撫で下ろした。
「そういえば姉上。あの血は大丈夫だったんですか?」
「え? あ、うん。静子さんに頂いていた血の小瓶がね。割れてしまったみたいで」
「奥方の…では姉上の血ではなかったんですね」
「うん。あれくらいで怪我なんてしないよ」
はっと思い出したように問いかけてくる千寿郎に、苦笑混じりに返す。
槇寿郎の視線はひしひしと感じたが、口を挟んでこないところ地雷を踏んだ訳ではないらしい。
どうにか場は凌げたようだ。