第29章 あたら夜《弐》
「お前らのその過保護さはなんだ。千寿郎馬鹿なのか」
「馬鹿と罵られようと構いません! 千寿郎の哀しい顔は見たくないのです!!」
「あ、兄上…なにを…」
「おお…流石杏寿郎の声。耳を塞いでも千くんに聞こえてる」
「姉上、も…もう、大丈夫ですから」
「私が大丈夫じゃないの。千くんを泣かせてしまったのに…ごめんね」
「…え、えと…」
蛍の手が耳から離れれば、今度は涙跡の残る目尻に触れる。
顔を赤らめ戸惑いながらも、千寿郎の顔はもう俯かなかった。
視線を泳がせながらも蛍の優しく涙を拭う手に従っている。
普段は亡き妻瑠火のように家を守り、家事全般をこなしていく千寿郎は年齢よりもずっと大人びている。
そんな息子の素直であどけない姿は槇寿郎には珍しく、無言で目を止めていたがはっとするとすぐさま二人へと歩み寄った。
「お前…ッ」
「え?」
「っ父上?」
細い肩を掴み無理矢理に千寿郎から顔を引き離す。
『…千くんの体液を貰ったこともあ』
『ッなんだと…!』
思い出したのはつい昼間の出来事だ。
蛍は千寿郎の体液も口にしていると言った。
その言葉を聞いた時はカッと頭に血が昇り、華奢な体を壁に押し付けていた。
涙を拭う蛍の姿が、甲斐甲斐しく世話をする姉ではなく、人間の分泌液でさえも餌にする鬼に一瞬重なったのだ。
無理矢理引き離され見上げる蛍の瞳と、鋭い槇寿郎の眼孔がぶち当たる。
「な…なん、でしょう」
戸惑いながらも動揺を抑え、問いかけてくる。
蛍のその顔を間近で凝視する。
瞳は擬態のまま、血走ってなどいない。
口元から牙は覗いておらず、爪先にも鋭さはない。
化粧をしている所為か。顔色はほんのりと明るく、健康的な女性そのものだ。
一瞬垣間見た鬼の姿とは、似ても似つかなかった。