第29章 あたら夜《弐》
まだ体は枯渇していたというのに。
些細な言葉一つ、動作一つで、満たされる自分がいた。
明け透けに甘える蛍のこの姿は、自分だけのものなのだと。そう思えば制欲とは違うもので満たされていく。
葛藤など、一つ瞬くうちに消え去っていく。
「本当に、君には…」
「ん?」
「いや」
適う気がしない。
ヒュー…
風を細く飛ぶような音色が響いたのは、その時だ。
何か、と蛍の視線が横を向く。
同時に、どぉん!と轟音が鳴り響いた。
ぱっと明るく空を照らす。
鮮やかな金色の火花。
「…あれ…」
それは夜空に咲く大華──花火だった。
「はなび…?」
「ぬぅっしまった…!」
「杏寿郎?」
「まさかもう始まってしまうとは!」
ぽかんと夜空を見上げる蛍とは反対に、慌て出す杏寿郎。
その姿に成程と合点がいった。
千寿郎に場所取りを任せていたのはこの為だったのだ。
「だから…成程」
「蛍、すぐに動けそうか?」
「うん、まぁ」
「ならばこの場を下りて」
「下じゃなく上を見て、杏寿郎」
「む?」
屋根の下ばかり見る杏寿郎の頬を、ぺたりと両手で包む。
そのままくいと上げれば、金輪の双眸に同じく丸い輪の花が映り込んだ。
どん、どん、と胸を打つ太鼓のような響き。
その度にぱっと夜空に大輪を咲かせる色とりどりの花火。
「すごく近い。私、こんなに間近で花火を見たの初めて」
「…そうだな」
息を呑むような美しさは、視界を覆う程に大きく、熱を感じそうな程に近い。
思わず息を呑んで見つめてしまう。
「まさか秋に花火を見られるなんて。私、夏のお祭りの日にしか見たことないよ」
「神幸祭の最終日に毎年上がるんだ。俺の知ってる中でも、秋の澄み切った空に咲く唯一の花火だ」
「…これを見せようとしてくれてたの?」
「ああ」
神幸祭は続いていたが、杏寿郎が監視の目を休めて一日自由な時間を取ったのは最終日だった。
単に祭りの最後の日だから共に楽しもうとしてくれていたのだと思っていた。
しかし蛍の予想は違ったようだ。