第29章 あたら夜《弐》
「なんでこんな所…」
「中以外なら何処でもいいんだろう?」
告げる杏寿郎の表情は朗らかな笑顔を添えたまま、思い浸るように周りを見渡した。
「子供の頃も、こうして同じ場所に立ったことがある。父上が目を合わせてくれなくなって数年程の頃だ」
「え…?」
「自分で体を鍛える為に努力はしていたが、鬼殺隊にはまだ入っていなかった為実力もわからず終いでな。この寺院の長い階段を足腰鍛えの為に使っていたが試したくなったんだ」
「試すって…何を?」
広々とした世界を見下ろしていた杏寿郎が、茶目っ気を残すような笑顔で蛍を捉えた。
「己が何処まで行けるのか」
基本人のいないこの静かな寺院は、身体だけでなく精神の鍛練にも都合がよかった。
一人で精神力を高めたい時、一人で思想に浸りたい時など何度も足を向けたことがある。
そこでふと抱いた幼心故の遊び心だった。
幸いにも近くで愚行を叱ってくれる者はいない。
汗だくになった体に澄んだ風を当てたかっただけなのかもしれない。
最上階の狭い窓から見える小さな世界から、飛び出す勇気を持ちたかっただけなのかもしれない。
正確な理由はわからない。
ただ気付けば身一つで屋根へとよじ登り、十数年生きてきた村の空からの風景を初めて眼下に広げていた。
汗の浮く肌を冷やす心地良い秋風。
紅葉に染まった模型のような町並み。
己にとってそれが世界の全てだと思っていた煉獄家は視界の隅にも入らない程に、小さくて。
心を燻る元凶が何一つ消えた訳でもないのに、一つの風が心に吹き抜けたような気がしたのだ。
「美しかった。あの日見た景色は一生忘れないだろう」
それからは己の心に後押しが欲しい時にも、足を向けるようになった。
自分の生まれた村を、守るべき世界を、改めて感じて。
嗚呼、自分が立ち止まるべきは其処ではないと。強い意思を携えて一歩新たに踏み出すのだ。
「だから蛍にも見せたくなったんだ」
子供のような無邪気な笑顔に、凛々しい面影が重なる。
その顔に導かれるまま、蛍もまた眼下の世界を見下ろした。