第29章 あたら夜《弐》
「どうした、飢餓が悪化したのか?」
「っ」
蛍の体調を気遣うように足早に建物の入口へと進む。
杏寿郎のその腕の中から見えたのは、賽銭箱のようなものと拝殿。
童磨に連れ込まれたあの神社と同じ造りに、蛍はびくりと肌を震わせた。
「この中、は、嫌」
「む?」
「ここ以外なら、どこでもいい。から、ここは嫌」
童磨に抱かれたことを引き摺りたい訳ではない。
ただ童磨の顔が脳裏に過るような場所で、杏寿郎との逢瀬はしたくなかった。
掛襟を握る手に力が入る。
じっとその手を見つめていた杏寿郎は、やがて視線を上へと向けた。
「わかった。ならば中はやめよう」
蛍の体を気遣うように優しく抱いていた腕に力が入る。
「杏じゅ…?」
「掴まっているように」
入口から身を引いた杏寿郎が、抱きしめるように力を込める。
何かと蛍が顔を上げた時。
「少し揺れる」
「っ…!?」
片足を下げて僅かに屈んだ杏寿郎の体が、ふっとその場から消えていた。
常人ならぬ脚力で跳んだ杏寿郎は、蛍を抱いたまま軽々と寺院の中央まで辿り着いていた。
建物の僅かな窓際を足場にして一度ふわりと着地すると、息つく暇もなく踏み込んだもう一つの足で跳躍する。
と、と、と。
まるでステップを踏むかのような軽い足取りで、杏寿郎の体は瞬く間に寺院の上を取っていた。
京都で脇に少年を抱き、肩に大の大人を担いで、蛍を背中にしがみ付かせたまま屋根の上を駆け抜けた暴風のような勢いはない。
なるべく蛍に振動が伝わらないようにと、柔らかな跳躍で寺院の屋根の瓦に両足を着けた。
「もう力を抜いてもいいぞ」
「っここ…って、」
「屋根の上だな!」
蛍の言葉を繋げるようにして、杏寿郎が声高に告げる。
一分もかからず杏寿郎が登りきったのは、寺院の高い屋根の上だった。