第29章 あたら夜《弐》
熱い吐息をついて、こくりと唾を飲む。
己の舌で濡らした杏寿郎の手を握ると、導くように両手で持ち上げた。
しとりと濡れた指先が触れたのは、愛らしい髪形に隠れた耳の後ろ。
付け根の僅かに下。
そこに触れれば、昔に負った古傷がある。
意図的に蛍から話さなければ気付かないような、小さな小さな傷跡だ。
しかし再生力を持つ鬼となっても残り続けた、人であった蛍の心と体を傷付けた跡。
「代わりに…杏寿郎を、頂戴」
そこに自ら触れさせるのは、二人だけで決めた次のサイン。
体を繋げて精が欲しいと意図するサインだ。
予想もしなかった蛍の要求に、杏寿郎は咄嗟に何も応えられなかった。
目を見開き無言を通す杏寿郎を前にして、顔を果実の如く赤く染め上げた蛍が取り繕うように小さな声で続ける。
「欲しい、けど体を重ねたい訳じゃない、の。此処は外だし…あの…私がするからっ。杏寿郎は何もしなくていい。え、と…直接、飲ませてくれれば、それで」
つまりは体を重ねるまぐわいではなく、口淫により杏寿郎の精が欲しいのだと。
「すぐに終わらせるから。服も汚さないようにするし、後始末も私が全部する。だから──」
赤い顔がどんどんと俯いていく。
その視界から完全に己の姿が消え去る前に、杏寿郎は傷跡に触れた手を蛍の後頭部に回していた。
「だから、俺の精が欲しいと?」
「っ」
ぐいと強い力で引き寄せられ、顔を上げた蛍の瞳が強い双眸とぶつかる。
「それらしい理由なんて幾つも選ばなくていい。ただ一つ、蛍の想いをくれれば」
見開いた双眸は他人から見れば威圧にも感じる。
なのにその目に捉えられると、蛍の体は内側から熱を持つ。
金輪の中の更に奥底。
そこにゆらゆらと灯火のように揺れる欲を見つけて。
こくりと、喉を鳴らして飲み込んだ。
「っ…杏寿郎が欲しい」
精や糧などとは言わない。
目の前のこのひとが欲しいのだと、懇願するように口にする。
蛍のその一言に、杏寿郎の口元が緩やかに微笑んだ。
「ああ。俺の全ては蛍のものだ」