第29章 あたら夜《弐》
例え目の前で血の雫が滴っていようとも、今の蛍なら手は伸ばさないだろう。
そう思える程、頑なに唇を噛み締め強い瞳を向けてきた。
「槇寿郎さんは、私の監視でついて来てくれているから。それを破ってしまったら…もう」
二度と隣を歩けない気がする。
そう言葉にするのは怖さも感じて、蛍は拳を握ったまま俯いた。
「だから血は要らない。今夜だけは一滴だって飲まない」
「……」
「杏寿郎が怪我をしても、絶対に飲まないからね」
念押しするように顔と共に声を上げる。
その声でさえ微かに上擦り、熱を帯びている。
喉が渇いているはずだ。
飢えを覚えているはずだ。
生きる為ならと、杏寿郎から貰えるものは全て糧にすると誓いもした仲だ。
それでも何より今、蛍が守ろうとしているのは槇寿郎との繋がりだった。
か細く今にも切れてしまいそうな細い糸を、理性で繋ぎ止め手繰り寄せようとしている。
「そうか…そうだな」
そんな蛍の姿に、杏寿郎は僅かに口元を緩めた。
己の大切なものを同じに守ろうとしている彼女の姿は、なんと愛おしいことかと。
「では別の方法で回避を考えよう。父上も蛍が人々に牙を剥かないと確信できれば、飢餓状態であっても見逃してくれるはずだ」
「……そのこと、なんだけど」
明るい声で笑顔を向ける杏寿郎は、前向きに検討してくれている。
それが伝わってくるからこそ、蛍は口澱みながら視線を逸らした。
体は熱い。
血肉を欲する本能が、肌の上を薄く這い上がりじわじわと主張してくる。
千寿郎も待ってくれているのだ、時間は無駄にできない。
短時間で飢餓を抑える方法。
それなら吸血を抜いて一つ、蛍は知っていた。
「杏寿郎に…お願いがあるの」
「うん? いいぞ、なんでも言ってくれ。俺にできることなら血を流すこと以外で応えよう」
「…血は要らない」