第29章 あたら夜《弐》
──甘い。
血のように濃く理性を惑わしてくる味も、肉のように唾液が滴るような匂いもしない。
なのに甘美な程に甘く感じる。
「ふ…ん、く…っ」
飲み込みきれなかった唾液が唇の隙間から溢れ、顎を伝う。
その一滴すら零すまいと杏寿郎の指が拭えば、離れた唇から覗く赤い舌が伸びた。
「ん…っ」
「…蛍」
杏寿郎の指先に舌を這わせ口内に含む。
飴を舐めるように丹念に味わい尽くす蛍の姿に、杏寿郎の口から零れる吐息が熱を帯びる。
「もう平気か…?」
互いの唇がふやける程に唾液を交わした。
貪るように唇を重ね、愛撫し、吐息すらも飲み込んだ。
僅かに息切れする程の口付けの末に、高揚した蛍の頬を杏寿郎の指の腹がすり、と撫でる。
「…ン」
しとりと濡れた相槌を打ちながらも、杏寿郎の手を握ったまま指先への口付けを蛍は止めなかった。
「ハァ…ん、」
足りない。
普段ならこれ程に唾液を味わえば、僅かな飢餓も抑えられただろう。
しかし稀血に中てられた欲はそれでは治まる気配がなく、蛍は浅い息衝きを続けながら杏寿郎から視線を逸らした。
「大丈夫、」
「ではないな」
それでも戻らなければ、と。落ち着かせようと深呼吸しながら告げれば、間髪入れずに否定されてしまった。
「で…も、千くんの所に」
「そんな半端な状態で戻っても余計に父上を煽るだけだ」
「ぅ…」
気まずそうに口籠る蛍の姿をざっと見る。
火照った肌は何も顔だけではない。
握る指先から、唯一衣服から覗く手首までも熱い。
何より口付けを交わす口内に潜む牙は、いつもより鋭く下手をすれば簡単に舌も裂かれるだろう。
実弥の稀血を煽った時程の衝動は見受けられないが、それでも確かに血肉を求めている。
「…血か…」
「っだめ」
考え込むように杏寿郎がぼそりと零した言葉を、蛍は聞き逃していなかった。
「血は、要らない。飲まない」
「…静子殿の稀血は」
「零した限りだったから、もうないけど…でもあっても飲まない」
「何故?」
「……」
「…父上か」
問わずとも理解できた。
蛍が強い意思を見せる時は、必ずそれ相応の理由がある。