第29章 あたら夜《弐》
「よ…く、わかりました…」
「うむ!」
「だから、もう戻ろ…う?」
その場の空気を断ち切るように、腰を上げた蛍が踵を返す。
しかし背を向けようとした体は見えない力に止められた。
振り返れば、屈んだままの杏寿郎が手首を握っている。
「杏寿郎?」
「まだ終わっていない」
「何──」
何が、と言い切る前に強い力に引き寄せられた。
同時に立ち上がり蛍の体をなんなく受け止めた寿郎が、流れるように口元の襟巻を下げる。
「んぅ…っ?」
瞬く暇もなかった。
一瞬の隙に奪われた唇は、抵抗もなく深く繋がる。
「んっンぅ…! っふ」
唇を塞がれ、舌を捕えられ、唾液が交じり合う。
抵抗らしい抵抗もできない。
驚いたまま硬直した蛍を、強く抱き寄せた杏寿郎が囲い込む。
口付けは一瞬では終わらなかった。
卑猥な粘着音が立つ程に、ねっとりと舌を絡ませられる。
送り込まれる唾液にこくりと喉を鳴らせば、体の奥底がじんわりと熱くなった。
それでも続く執拗な舌の愛撫に、最後には足腰の力が抜け、倒れ込むように杏寿郎にしな垂れかかっていた。
「は…ァ…っ」
塗り重ねていた紅が薄れ落ちた頃、ようやく唇を解放される。
「…どうだ?」
「どう、って…」
「飢餓が出ているだろう」
「っ」
「父上でも感じ取れたんだ。俺がわからないはずはない」
蛍が最初に頭を揺らした時から、その兆候は感じ取っていた。
静子の稀血を嗅いだのだ、理由を辿れば当然の結果。
千寿郎の血では揺るぎもしなかったのものの、やはり稀血にはそれだけの効果があるのだと改めてその強さを思い知った。
「ン…我慢できると、思ったんだけど…」
「我慢はするな。その為に決めた合図だろう?」
「…うん」
「まだ必要なら与えるが、どうだ?」
「……」
迷うように俯く蛍の瞳が揺れる。
人と同じに擬態した黒い瞳の奥底で、鮮やかな緋色がちらついた。
「じゃあ…もう少し、だけ」
伸びた指先が杏寿郎の袖を握る。
三度、引く。
二人だけに伝わる秘密の合図。
ほんのりと頬を染め求める蛍に、杏寿郎は柔く口元を綻ばせた。
「君が満たされるまで」