第29章 あたら夜《弐》
「ならば俺も同行する」
「ならん」
当然と言うべく杏寿郎が名乗り出れば、それを止めたのは蛍ではなかった。
鋭い眼孔を携えた槇寿郎だ。
「大方、千寿郎の血にでも中てられたんだろう。傍にいることは俺が許さん」
「ちが…」
「違います」
千寿郎の血に中てられた訳ではない。
それだけははっきりと言える。
以前にも爪で千寿郎の皮膚を裂いた時でさえ、その兆候は出なかったのだから。
それよりも傷付いてしまった千寿郎の姿に、思考は奪われて。
そう蛍が力無く頸を横に振るよりも早く、振り返った杏寿郎が揺れることのない芯の強い声で否定した。
「蛍は千寿郎に飢えを向けたりはしません。絶対にです」
「兄上…お、俺も、そう思いますっ」
「なら今の状況をどう説明する。大勢の人間がいる場にとどまり過ぎて酔ったとでも言うのか」
庇うように蛍の前に立ったまま、杏寿郎は周りの景色に視線を巡らせた。
確かに触れ合える距離で大勢の人々が行き交っている。
しかしそれくらいで蛍の理性が揺らぐとは思っていない。
揺らぐとあらば、それなりの理由があるはずだ。
「蛍の命は俺が預かっている身。最後まで責任を持ち監視する役目があります。なので一度、蛍を此処から連れ出そうと思います」
「連れ出してどうする。お前の血でも与えるつもりなら、今すぐ此処でその鬼の頸を刎ねるぞ」
鋭い槇寿郎の眼孔に殺気が入り混じる。
咄嗟に蛍が口を開こうとすれば、背後が見えているかのように杏寿郎が片手を出しそれを阻んだ。
「いいえ。彼女の着物を綺麗にしたいだけです」
踏み出そうとした蛍の前で頸だけ捻り、優しい瞳で問いかける。
「それが最優先だろう?」
蛍が何より望んでいることを叶えてあげたいだけだ。
そう語る杏寿郎の瞳に、蛍は言葉を飲み込みきゅっと唇を噛み締めた。
こくりと頷く蛍に、朗らかな表情で杏寿郎は一つ笑った。