第29章 あたら夜《弐》
それから暫くした後。獣の声も少なく物寂しい夜などになると、あの湖の中から摩訶不思議な音色が聴こえてくるようになりました。
ぽろん、ぱらん、ぴれん、ぽろん。
それは娘が機織りの際に奏でていた音色と似ています。
ぴれん、ぱらん、ぽろん、ぴれん。
綺麗な湧き水に波紋を浮かせ奏でられる音色は、人里の村人達を再び魅了しました。
〝湖に鬼など住んではいなかった〟
親子が沈黙を守ったため、考えを改めた村人達はやがて湖へと足を運ぶようになりました。
物寂しい夜などは特に、その不思議で美しい音色を求めて心優しい娘と腕の立つ漁師の父の家にも顔を見せるのです。
ぽつんと一つだけ村里離れた所にあった親子の家は、それからというものの人の絶えない賑やかな家となりました。
ぽろん、ぱらん、ぴれん、ぽろん。
なんとも言えないあの不思議な音色が湖を包む度。耳を傾け、時には踊り、楽しく過ごしたということです──
「これにてめでたし、めでたし」
頭を下げる黒子の語り部で、物語が終わりを告げる。
ぱちぱちと拍手がその場に響く中、蛍は鮮やかな色とりどりの波紋を広げる湖の影絵に目を奪われていた。
「鬼の角ってお話、初めて見ましたっ」
「ふぅむ。中々に面白い話だったな!」
周りの灯りが灯され直すと共に、囲うように包んでいた杏寿郎の腕も蛍の体を解く。
煉獄兄弟の弾む会話を耳にしながら、蛍はしげしげと「おしまい」の字を影絵で浮かび上がらせる幕をじっと見つめていた。
「蛍はどうだった?」
「姉上も初めて見ました?」
その視界に、焔色の頭が大小二つ覗き込む。
ぱしりと目を瞬くと、蛍はふっと力を抜く様に吐息をついて笑った。
「うん。初めて見たけど面白かった。…鬼が死なないお話もあるんだね」
自分が鬼だからではない。
人間であった時に聞いたことのあるおとぎ話に出てくる鬼達は、基本は悪役だらけだ。
桃太郎も、一寸法師も、こぶ取り爺さんも。
死なないにしても、鬼は恐怖の対象として物語には出てくる。
鬼の角の牛鬼も、物語の内容で言えばそうだった。
しかし漁師の娘の目にはそう写ってはいなかったはずだ。