第29章 あたら夜《弐》
『──その男から離れろッ!!』
父親の叫びに、はっとした娘が動きを止めます。
背に抱えていた猟銃を手に取ると、父親は男目掛けて火を噴かせました。
森の中を響き渡る銃声の轟きに、驚いた野鳥が一斉に木々から飛び立ちます。
やがて静寂が包む中、撃たれた男がどしんとその場に倒れ込みました。
しかしそれはもう男の姿ではありません。
毛むくじゃらの茶の体に、ひょろりと長い尾。
娘の頭も簡単に鷲掴めそうな大きな手には、鋭い鉤爪。
頭には天を仰ぐような立派な角。
黄色に染まった結膜の瞳に、尖った耳まで裂けた口。
人間とはかけ離れた姿をしたその正体は、牛鬼(ぎゅうき)と呼ばれる鬼だったのです。
『おのれ人間め…我の角を奪うだけでは飽き足らず、命までも奪おうと言うのか』
血走る黄色い結膜の瞳に、怒りと悲しみの涙が浮かびます。
猟銃の弾は脇腹を掠っていた為、致命傷とまではなっていません。
耳まで裂けた口から絞り出すような声は、悔しさに満ち満ちていました。
その姿に息を止めて佇んでいた娘は、駆け寄る父親にはっと手を伸ばしました。
『やめて! それ以上は酷いことをしないで!』
刃物を抜きとどめを刺そうとしていた父親を止めたのです。
何故と抗う父に、それでも娘は立ちはだかった身を退こうとしません。
その姿に驚いたのは父親だけではありませんでした。
血に染まった脇腹を押さえたまま、目を見開いていた牛鬼はやがて身を震わせ立ち上がりました。
『娘よ。これは紛うことなき鬼の角。我のものだ、返してもらうぞ』
血を滴らせながら一歩一歩、片足を引き摺るようにして牛鬼は巨体をなめくじのように這わせて逃げていきます。
その姿はやがて湖に身を浸らせると、瞬く間に水底へと潜り消えていきました。
『何故止めた。相手は鬼だぞ』
『だって、おとっつぁん』
未だに納得のいかない様子の父に対し、娘はどことなく清々しい表情をしていました。
見た目は確かに恐ろしい異形の姿をしていましたが、あの牛鬼は娘の命を食らおうとした訳ではありません。
『あの杼はあの鬼のものだったから』
あるべきところに返しただけ。
そう告げる娘に、ようやく刃物を握る父の手も下がったのです。