第29章 あたら夜《弐》
そのまま有無言わさず押し付けたのは、傍らで見ていた杏寿郎だった。
当然のように腕の中で受け止める杏寿郎に、すっぽりと蛍の体は覆われてしまう。
「杏──」
「し、」
背中から包まれた蛍が振り返る前に、耳元で静かな杏寿郎の吐息がかかる。
「大丈夫だ。ほら」
目線は合わない。
しかし穏やかなその声に促されるように、蛍の視線が目の前の光景に移る。
「鬼はあれだ。蛍ではない」
杏寿郎の視線も同じ先を辿っているのだろう。
影絵としてうねり動く、角を生やした巨大な異形の影に。
「誰も逃げ出そうとはしていない。だから蛍も、」
落ち着かせるように、蛍にだけ聞こえるように耳元で囁く。
大きな掌があやすように、ぽんぽんと、二度蛍の肩を撫でた。
「此処にいていいんだ」
触れる掌から、伝わる声から、安堵感が広がっていく。
ほ、と息を零して肩の力を抜くと、蛍は背中にある体温に身を預けた。
「…ん」
鬼の眼は夜目が利く。
周りの村人達を見ても、誰一人蛍を見ている者はいない。
皆目の前の影絵劇に釘付けで、鬼の影絵を楽しそうに見ている。
逃げ出す者は一人もいない。
恐怖に慄く者も、悲鳴を上げる者もいない。
これは娯楽なのだ。
ついのめり込んで見ていた蛍も、その影絵の特殊な映像美に惹き付けられた。
だからつい無防備になって驚いてしまっただけなのだと。
(うん。大丈夫)
杏寿郎の言葉を胸の内で繰り返す。
腹部に回された手にそっと上から触れれば、包むように握り返された。
「さぁ、ここから見せ場だぞ」
「うん」
わくわくと楽しげな杏寿郎の声が先を促す。
途端に再び舞い戻ってくる娯楽の空気に、蛍も顔を綻ばせた。
皆の目が影絵劇に夢中になる中、そんな二人の様子を視界の端で見守っていたのは槇寿郎ただ一人だ。