第29章 あたら夜《弐》
『何用で参ったのですか?』
再度尋ねてみます。
しかしやはり返事はありません。
はいともいいえとも、相槌を打つこともなく。ただにこにこと笑い続けているだけなのです。
その恐怖にとうとう娘は杼を持つ手を止めてしまいました。
ぱたりと鳴り止んだ音色に、踊り続けていた男の手足も同じに止まります。
『何処のどなたか存じませんが、他人の家に無断で上がるのは失礼というもの。どうかお帰りになって頂けませんか』
手を止め振り返った娘は、決死の思いで声を上げました。
目が線になるまでにこにこと笑っていた男が、その言葉に目を止めました。
線のようにぴたりと閉じて笑った顔のまま。
はて、と可笑しなことを言うとばかりに首を傾げるのです。
『かえる…帰る? ああ、そうだ。帰る前にせねばならぬことがある』
顔はにこにこと笑っているというのに、その声は感情が読めない淡々としたものです。
底冷えするような声に娘が動けずにいると、男は軽やかな足を一歩踏み出しました。
あ。と思った時には、機織り機に置いていた杼を奪い取られていたのです。
『これは我のもの。返してもらうぞ』
感情の起伏のない声で男が笑い上げます。
はははは、ははははと笑いながら杼を持ち踊る様は異様なものです。
しかしそれは娘の何より大切な宝物の杼。
奪い取られてはならないと、震え上がる体に鞭打ち娘は立ち上がりました。
『返して下さい! それは私の杼です!』
勝手に家に上がり込み、勝手に人の持ち物を奪い取るなど。泥棒の他ありません。
必死に男に掴みかかろうとしますが、ひらりひらりと笑いながら踊る男は風のように家の外に飛び出しました。
『待って! 返して下さい!!』
それでも娘は諦めません。
後を追いかけ飛び出すと、湖の近くで男は踊り続けていました。
はらん、ひらん、ほらん。
音楽もないのに楽しげに踊る男は、掴みかかろうとする娘をのらりくらりと避けていきます。
すっかり日は傾き夕暮れ時。茜色の空は二人の影を長く長く足元から伸ばしていきます。
ほろん、ひれん、はらん。
逃げる男に追う娘。
ゆらゆらと揺れる長い人影が、ぐにゃりと大きく歪んでいきました。