第29章 あたら夜《弐》
「僕も初めて見ました。あんな真剣な面持ちで呼吸を使う父上を。その…すごく、恰好良かったですっ」
小走りに駆け寄ってきていた千寿郎が、未だに高揚した気配で告げる。
幼い少年の心からの称賛を向けられては、流石の槇寿郎も悪態では返せなかった。
ぐ、と何かを言いたげな唇を結んで押し黙る。
そんな槇寿郎の姿に、杏寿郎と蛍は目を合わせると笑った。
夜の神幸祭に一歩踏み入れば、目につくもの全てが新鮮で、楽しくて。瞬く間に時間は過ぎていった。
最初は遠慮していた千寿郎も、やがては興味を持ったものには蛍の手を引き「あれがしたい」「これが見たい」と急かした。
父は勿論、兄相手でも遠慮しがちなところがあった千寿郎がだ。
そんな千寿郎に溢れる笑顔のままついていく蛍もまた初めての経験に目を輝かせていて、そんな二人を止める気など杏寿郎には到底浮かばなかった。
例え槇寿郎が止めようとも、全力で抗い押さえただろうとさえ思う。
勿論見ているだけでは満足しない。
父の背を押し、自身も踏み出し、二人の下へと何度も足を向けた。
結果。
「むむ! あそこからも良い匂いがするぞ蛍!」
「はいはい。買うのはいいけど、他のお客さんの分が無くならないようにね」
「了解した!」
「兄上、全部の出店の料理を食べ尽くしそうな勢いですね…」
「無論そのつもりだが?」
「えっ」
「やっぱり」
「…お前の胃袋はどこに繋がっているんだ…」
千寿郎に負けず劣らず、杏寿郎もまた見事な食いっぷりで見える料理全てを平らげていた。
呆れと見放し混じる槇寿郎の言動にも、きらきらとした目で「胃が繋がっているのは腸です!」と突っ込みどころ満載な返事をする始末。
陽の気が一層強い杏寿郎には、何を言ったところで無駄だと悟っているのか。声を荒げることはしても、早々諦めるのは槇寿郎の方だ。
そのお陰で槇寿郎は振り回されつつも、特に大きな問題もなく祭りの時間は過ぎていった。
(ああ、楽しいなぁ)
見える光景一つ一つに、蛍が噛み締める程に。