第29章 あたら夜《弐》
唯一憶えていることと言えば、一度だけ姉に買ってもらった綿菓子の思い出だ。
ふわふわとした綿雲のようなそれは口に入れた途端に、蕩けるようにして消える。
驚きながら頬張った、甘くて優しい記憶だ。
それだけで幼い蛍にとっては特別な思い出となった。
「だから私と一緒に遊んでくれるかな」
きらきらと輝く、幼心には宝箱のように眩い世界。
今は手を伸ばせば届くところに全てがある。
「千くんと一緒に色んな初めてを楽しみたい」
ね、と柔く微笑み誘う蛍に、何か言いたげに開いた口を千寿郎はきゅっと閉じた。
下がり気味だった眉尻をきりりと上げて、蛍の手を握る。
「僕も、姉上と一緒に楽しみたいですっ」
「ほんとう?」
「はいっあの、あれ…っ射的! したいですッ」
「射的! うん、いいね。私もしたいっ」
「それに…っあの、お菓子の屋台にも行ってみたいです…っ」
「美味しそうな匂いがするね。なんでも食べようっ」
手を引き、握り返し、小走りに駆けていく。そんな二人の姿を目を細め見守る杏寿郎もまた、ぱっと顔を輝かせた。
「父上、俺達も行きましょう! 二人に遅れを取らないように!」
「フン、好き勝手すればいいだろう。俺はあの鬼を見張」
「見張るのならば近くにいなければ! さっ!」
「っおい肩を掴むな!」
「この人混みです、少しでも離れれば見失ってしまいます!」
「っ…」
杏寿郎の言うことは一部的を得ているものだから、完全な否定もできない。
そして肩を握る息子の強さと言ったら。
杏寿郎が己の怒り任せの拳を止められることはもう知ってしまった。
本気を出せば常に鍛え上げているその肉体に、この堕落した身体は負けるかもしれない。
そもそもこんな賑やかな祭りの場で取っ組み合いをする訳にもいかない。
歯を食い縛りながらも、槇寿郎もまた重い足を踏み出した。