第28章 あたら夜《壱》
「ごめんね。でもまだ七時になってないっ」
「そうだが…やけに時間に拘るな」
だって、と出そうになった言葉を呑み込む。
槇寿郎には七時からと告げたのだ。
その時間帯にならないと、あの重い腰を上げてくれないのかもしれない。
(七時過ぎって言わなきゃよかった…せめて七時丁度だって)
例の時間帯までは数分もない。
それでも一向に現れる気配のない槇寿郎に、そわそわと蛍の体が後方を向く。
「私、ちょっと忘れ物したから取ってくる」
「っ待て蛍」
「あっ姉上」
握っていた二人の手と腕を離し、改めて玄関を上がろうとした。
みっともなく思われようとも、しつこいと怒鳴りつけられようとも。最後の抗いくらいはしないと気が済まない。
せめてもう一度だけでも。
そう草履を脱ごうと片手を足に伸ばした時だ。
「直前になってもたつくなどなんたる様だ」
厳しく指摘するような声が届いたのは。
「自分から言い出しておいて、時間の一つも守れないとは」
声もなく目を丸くした蛍が振り返る。
それは杏寿郎と千寿郎も同じことで、見たこともないものを捉えたように声を失った。
三人の視線が辿ったのは、玄関の戸を跨いだ先。
杏寿郎が半分開いた戸の向こうには、しびれを切らすように立つ人影があった。
「情けない」
ぶっきらぼうに吐き捨てるその影は、杏寿郎と同じ形をしていた。
ただ杏寿郎を僅かに勝る体躯に、杏寿郎より色味の薄れた髪。
肌寒い季節でも惜しみなく胸元を見せた黒橡色(くろつるばみいろ)の着流し姿には、堅気ではない印象が残る。
しかし着流しとは相反した素色(そしょく)の明るくも上品な色合いの羽織を肩にかけている為、野党のような柄の悪さはない。
其処に立っていたのは、蛍が初めて野外で見た槇寿郎の姿だった。