第28章 あたら夜《壱》
唇に触れる、その手前。
擦れ擦れで止めた杏寿郎が静かに喉を嚥下する。
ここで唇を奪ってしまえば、折角花咲いた紅を散らせてしまう。
何より歯止めも効かなくなりそうで。
「…よく、似合ってる」
どうにか絞り出すようにそれだけ告げて、ゆっくりと顔を退いた。
「…ほんと?」
ぱちりと瞳が瞬く。
照れの滲む頬を和らげ、嬉しそうに蛍が笑う。
「これ持っていてもいい? お化粧直しに使いたい」
「無論。それは蛍にあげたんだ。もう君のものだ」
「え。そんな、」
「簪や着物は飾れば見る目も楽しませてくれるが、化粧品は使わなければ宝の持ち腐れだろう?」
蛍が断ることはわかりきっていた。
煉獄家に滞在中は普段から瑠火の着物を使用していたが、あくまで借りるだけと言い切ってきたのだ。
「使ってくれ。棚の中で廃れていくより、その方が母も喜ぶ」
やんわりと蛍の手を包むようにして、貝殻を握らせる。
迷うように視線を揺らした蛍の目が、今一度包む手の元で止まる。
やがてはこくんと小さく頷く頭に、ふわりと揺らぐ遊び髪が揺れた。
「…ありがとう」
「うむ」
受け取ってもらえたことに安堵しつつ、杏寿郎は揺れる髪に目を止めた。
「しかしその髪型はどうやったんだ? それも八重美さんの教えか」
「ううん。これは自分でやったの。八重美さんが見せてくれた雑誌を参考に」
「雑誌?」
「色んな女の人のお洒落な髪形とか、服装とか載ってるの。見たことのないお洒落が多くて、すごく楽しかった」
夫人公論や大正ロマン手帖、婦人世界など数々のファッション雑誌も持ち込んでくれた八重美に、すっかり蛍は夢中になった。
薄い本の中には様々な着こなしや飾りを施した女性達が載っていて、知らない世界を覗き見たような気分でわくわくしたのだ。
そこから着想を得て辿り着いたのが今の髪形。
「好きな髪型を想像しながらね、こうして…」
髪をほんの一房。指先で握り、つるりと流れるようにして強めに引っ張る。
「こう」
ぎゅっと爪先に力を入れて数秒。
手を離した途端、ふわりと柔らかな曲線を描いたパーマ髪が蛍の肌で踊った。