第28章 あたら夜《壱》
「いろ?」
頸を傾げる蛍の前で掌を開く。
そこにはぽつんと、薄桜色(うすざくらいろ)の貝殻が乗っていた。
「それ…」
「母が使用していたものだ。しかし古くはないぞ。今でも使えると思うが…如何せん俺はこちらの知識が足りなくて」
「もしかして、口紅?」
「うむ」
蛍にも見覚えがある。
こんな形のものは手にしたことがないが、薄い合わせ貝の内側に紅を塗り、必要な時に指に乗せて唇に差すものだ。
「これ、私が使っていいの?」
そわそわと嬉しそうに貝殻と杏寿郎を見つめる。
蛍のその反応にほっと頬を緩めて、杏寿郎は今一度頷いた。
「また転倒でもして紅を剥がしてしまった時の為にな」
「ぅ…も、もうしないよ」
「はは、そうだな。その時は俺が支えていよう」
「…うん」
転倒などしてはいないが、その腕には寄り添っていたいと思う。
素直に頷く蛍に微笑むと、杏寿郎は薄い桜貝の紅を掌に乗せた。
「今、付けてもいい?」
「しかし既に紅はもう」
「これを付けたいの。駄目かな」
「…蛍が付けてくれるなら、母もきっと喜ぶ」
花弁を開くように、合わせ貝を親指で押しずらす。
光沢ある真珠のような貝の内側には、淡い薄紅色の紅が乗っていた。
「やさしい色。私、こんな色の口紅付けたことない」
「君は鮮やかな赤が似合うからな」
艶紅を乗せた唇を柔く緩めて微笑む柚霧も、一層好いた顔だ。
しかし目の前の初めて見る蛍の姿に、この柔い紅色を差せばどう花を咲かせてくれるのか。
小指で紅を拾い、唇に触れる蛍を一時も目を逸らさず見つめた。
唇の中心から広がる薄紅色。
ちょぽんと上向きに唇を彩る紅は、蛍の顔をより一層華やかに惹き立てた。
上品に、さながら少し甘く。
「どう? 似合うかな」
姿見で確認しようと背を向ける蛍の肩を咄嗟に掴む。
「杏…?」
見上げる蛍の一輪咲いた花のような唇に、釘付けになってしまって。
引き寄せられるように顔を寄せていた。