第28章 あたら夜《壱》
「わかりましたっゆっくり御支度なさって下さい…!」
「あ! 八重美さ…っ」
ぽぽぽ、と八重美の顔が乙女の如く染まる。
千寿郎の制止も届かず、足早に部屋を出ていく姿に呆気に取られたのも束の間。
「兄上っ言葉は選んでくださいね…!」
はっとした千寿郎も慌てて八重美を追った。
去る間際、振り返った顔は彼女と同様ほんのりと染まっていた。
登場も退場もまるで突風のように。瞬く間に消え去る二人に、残された蛍が恐る恐るとシーツの下から顔を出す。
「…杏寿郎」
「ん?」
「駄目だよ、八重美さんをからかったりしたら」
彼女は本気で杏寿郎を慕っていたのだ。
その恋心を惑わすようなことはしないで欲しいと切に訴えれば、返されたのは爽やかな程に曇りのない笑顔だった。
「俺は本音を言ったまでだぞ」
「こんな顔の私を堪能したいって思う? 普通」
「? 思ったんだが」
「…そんな無垢な顔しないで欲しい」
きょとんと笑顔で頸を傾げる杏寿郎を前にすると、まるでこちらが悪になっているような気がする。
そして本気で悪気がないのがわかっているから、負けた気になるのだ。
「ああ、しかし別の思惑はあったな」
「そうなの?」
「その顔で二人の前には出られないだろう? 今のうちに化粧を落として、客間へ行くとしよう」
大きな手の甲が、肌擦れ擦れを触れるか触れまいかの距離で撫でる。
「この腕から逃すには名残惜しいがな」
見つめる杏寿郎の柔らかな眼差しに嘘はない。
本気で思っているのだ。
今目の前にいる蛍の姿を、もっと味わっていたいと。
「……」
この日のことを忘れることはない。そう優しい音色で蛍の姿が愛らしいと八重美に語っていた声を思い出す。
その想いもまた無垢な本音だったのだろう。
「蛍?」
「…ううん」
無言でぷすりと湯気が立つ。
その顔が八重美のように赤く染まってしまう前に、蛍は頭を傾け目の前の胸に預けた。
ぽふりと埋まれば、自然と腕が支え抱いてくれる。
蛍一人なら軽々とその身を抱えられる、太く強い腕だ。