第28章 あたら夜《壱》
「杏──」
「あ!」
愛おしい名を呼ぼうとした。
深くも取れるその誓いのようなものに、淡い期待を抱いて。
その声を遮ったのは、まだ幼さの残る少年のものだ。
「姉上やっぱりここに…ッ」
「せ、んぅっ!?」
「おはよう千寿郎!!」
締め切っていた襖を覗いて、ぱしりと開けたのは千寿郎だ。
はっとした蛍が顔を向けようとすれば、再び頸の後ろを導かれた。
今度は有無言わさない強い力で、ぐいと引き寄せられる。
「兄上…? 起きていたのですか」
「うむ! 自分で起きた!!」
「む、むむぅ…っ」
てっきり寝ているものと思っていた杏寿郎ががばりと体を起こしたものだから、同じ金輪の千寿郎の瞳が丸くなる。
驚きはしたが、それより気になるのは杏寿郎に頭を抱き寄せられその胸に突っ込んでいる蛍だ。
「それより姉上が…」
「蛍も聊か疲れていたようでな! 共に休んでいるところだ!」
「そう、なのですか…?」
勘繰るような千寿郎の声に、更にぐっと杏寿郎の手に力が入る。
最初こそ何事だと藻掻いていた蛍だったが、ふと己の顔を思い出し動きを止めた。
杏寿郎が咄嗟に蛍の顔を抱き庇ったのも、恐らくそれが理由だ。
今は目も当てられない化粧崩れの顔をしている。
そんな姿を見れば、千寿郎も心配するだろう。
「姉上、大丈夫ですか? まさか父上が──」
「む!」
千寿郎の不安に満ちた声が、父の名を口にする。
その前にと蛍は自由な手を上げると、握り拳を作って掲げて見せた。
「あ、姉上?」
「むぅむ! むふふふんふふ!」
「ええと…」
「うむ。何も心配することはない!だそうだ!!」
「兄上、わかるんですか…? 姉上の言ったこと」
「無論!!」
迷いのない顔で強く笑う杏寿郎には、不思議と人を納得させる力がある。
特に蛍のこととなると千寿郎の知らない顔を持つ兄のことだ。強ち間違ってはいないのだろうと、千寿郎は迷いながらも足を止めた。