第28章 あたら夜《壱》
「転んだのか」
「うん」
にしては、と続けようとした言葉は呑み込んだ。
ただ横に掠れて伸びているだけではない。
捻り曲がったような紅の跡は、果たして転んだだけでできる跡なのだろうか。
筋肉の付き方や怪我の残り方はわかっていても、化粧の跡までは鮮明に分析できない。
「それはさぞかし躍動感ある転倒だったのだろうな!」
「まぁ…こけた先に洗濯籠があって、ぶつかりそうになったから回避したらこの有り様」
「成程!」
じっと蛍の顔を観察した後、高々と考察を述べれば苦笑混じりに返される。
蛍のその対応に、杏寿郎は肩の力を抜いた。
「怪我は?」
「それはないよ」
「うむ。ならばいい」
怪我らしい怪我は見当たらない。ここまで触れ合っていて血の臭いも感じない。
何より言葉と表情でわかる。
明確なことは伝えてきていないが、蛍の中では呑み込めていることだ。
だから必要以上に語らないのだろう。
(気にならないと言えば嘘になるが…引っ掻き回さない方がいいやもしれんな)
正直に言えば気に掛かる。
しかしそれで蛍の心を荒らしたい訳ではないのだ。
気恥ずかしそうに、観念したように、苦笑混じりに。そうして伝えてくる蛍は、残念そうにも見受けられるがどことなく一仕事終えたような顔をしていた。
多くを語らずとも、互いの瞳を見て伝わるものがある。
今の蛍なら、きっと大丈夫だ。
「己の顔を盾にしてまで洗濯籠を守ったのだな。安易にできることではない。凄いぞ」
「…っ」
くしゃりと顔を綻ばせて、杏寿郎は今一番送れる称賛を伝えた。
子を愛でるように優しく頭を撫でれば、ぱちりと見上げた緋色の瞳が一度だけ揺れた。
きゅっと結んだ唇の端を上げて、蛍が笑う。
「…ありがと」
張っていた表情筋を緩ませるように、弱くも柔い笑みを浮かべる。
その頭を幾度も撫で続ければ、甘えるように擦り寄ってきた。
「ん」
「ん?」
「…頭ぶつけて痛かったから、もっとなでなでして下さい」