第28章 あたら夜《壱》
狡いと彼女はよく口にするが、捕らえているようで捕らえられているのはこちらなのだ。
甘い蜜に誘われるように体は勝手に引き寄せられて、到底抗うことができない。
(とは思っていないのだろうな。蛍は)
何度も繋ぎ合わせた心の結び目は太く、確かなものとなった。
しかし目の前の彼女のそういう姿勢は未だ健在だ。
よく柱は顔面偏差値が高いと言ってくるが、自分のそれについてはとんと興味がない。
そもそも虜になっているのは何も蛍の容姿だけではないのだ。
(勿論その姿も愛らしいのだが)
姿かたちも、仕草や口調も、瞬き一つでさえ見逃したくないというのに。
ころころと変わる表情も、知る度に知らない一面を見せてくれる姿も、突拍子もなく笑わせてくれる言動も、時折醸し出す甘い空気も。なんてことはない日常をこうも彩ってくれるのは蛍の存在そのものだ。
誘われた蜜に溺れているのは、最早こちらの方。
己を着飾り魅せる術を知っていながら、どこまでも謙虚というか自信を他所に置いてきたというか。
そんな蛍だから尚のこと愛で回したくなるのか。
「み…見過ぎでは…落としてくるっ」
「まぁ待て待て」
そんな穏やかな心で見つめていれば、蛍には穴が空く程凝視されたと思われたらしい。
血相を変えて部屋を出て行こうとする前に、逃がさないよう再度腕の中に閉じ込めた。
「何があったんだ? その顔の経緯を聞いてからでもいいだろう?」
本音はもう少し、化粧で珍しい失態をした蛍の愛くるしさを拝んでいたかったこともある。
逃がさない為に言葉を選びながら、やんわりと杏寿郎は問いかけた。
「それは、杏寿郎の胸に飛び込んだからで…」
「俺の寝間着に紅は付いていない。俺と触れる前に、唇は既にこの状態だったのではないのか?」
顎にかけていた手を開き、親指でそっと掠れた紅の跡に触れる。
本来は形よく蛍の唇に乗せられ、その顔色を華やかなものに変えていたのだろう。
しかし今は強い力で拭い取ったかのように、唇から掠れて大きく頬に伸びている。
「何があった?」
「…転びました」
再度問えば、蛍は気恥ずかしそうに視線を逸らしつつ答えを告げた。