第28章 あたら夜《壱》
「欲ならあるぞ。千寿郎には剣士になれずとも立派な人間になって欲しいと思うし、父上にも昔のようにまた心を開いて欲しいと願っている」
微睡んでいた声にしかと強さが戻ってくる。
ぱちりと瞬いた双眸を大きく開いて、杏寿郎は視線を落とした。
「…何より俺のことを俺以上に想ってくれるこの腕の中の優しい鬼が、人に戻れるように」
見開いていたその双眸が、不意に柔く細まる。
「美味しいものを共に食べたい。一等綺麗な朝日をその目に映したい」
十分に望む未来は幾つもある。
掴み取りたい幸せはいくらだってあるのだ。
「陽の下で笑う、君が見たいんだ」
ただ今も幸福な思いは、変わらないだけで。
そっと導くように、杏寿郎の手が胸に埋まる蛍の頬へと伸びる。
一層望むものは陽光に照らされたそれであっても、愛おしい想いは変わらない。
夜の闇の中でも、薄暗いこの部屋の中でも。
いつだってこの目に映していたい。
「おはよう、蛍」
一日の始まりを再度告げる。
愛おしい人と迎えられることが幸福であるように、一つ一つ噛み締めて。
導かれるように上がる蛍の視線と絡まる。
些細な距離を自ら縮め、自分だけが触れることを許された柔い唇を奪う。
「──っン、」
否。奪おうとした。
「ぶはッ!?」
薄暗くともまだ太陽の昇っている頃。
部屋の暗さに慣れた杏寿郎の視界が捉えたのは、蛍でありながら凡そ蛍とは呼べない顔。
思わず吹き出してしまう。
「ほ…蛍…? なんだその…顔は…っ」
「わあああ見ないで! 忘れて!! 今すぐに!!!」
「っ…それは無理やもンっぶふ」
「喋るか笑うかどっちかにしてくれません!?」
耳まで真っ赤に染めた蛍が、布団に顔面から突っ伏す。
杏寿郎の甘い空気につい絆され、己の顔の状態を忘れていた。
その杏寿郎と言えば、ぷるぷると肩を震わせ、わなわなと口角を伸び縮みさせている。
それだけ酷い有り様なのだろう。
(私の馬鹿…!)
先程まで甘くも真面目な未来の話をしていたからこそ、尚のこと羞恥が募る。
ぷしゅう、と頭から汽笛のような湯気が上がるようだ。