第28章 あたら夜《壱》
「千くんは、どんな感じ? 可愛かった?」
「ああ…懸命に俺が留守のあいだ、家を守ってくれていた。誇り高い弟だ」
「槇寿郎さんは、どうだった? お話してくれたのかな」
「報告には耳を貸してくれたが、話は交えてもらえなかった。だが目を見てくれた」
「そっか…目が合えたなら大きな一歩だね」
父がいて、弟がいる。
我が家があって、三食摂ることができ、熱い湯船で疲れを癒し、暖かい布団で眠ることができる。
他人から見れば賛否両論な杏寿郎の生き方は、決して幸福の一択ではない。
しかし杏寿郎はそれが幸せなのだと言う。
最愛の母を亡くしたからこそ、命の尊さを知っている。
人が変わる前の父の優しさを知っているからこそ、そこまで心身を落とした痛みを理解できる。
鬼の世の浮世。
弱肉強食の世界。
目を逸らすことなく現実(いま)を見ているからこそ、現在(いま)の立場を幸福だと心から思えているのだ。
「…同じだな」
「ん?」
そして。
「夢のなかのほたるも、同じように笑ってくれた。千寿郎が大好きで堪らないと言って、目が合った父上に微笑んでくれた。…そうして、君が隣にいてくれるから」
最愛のひとを、誰よりも傍で感じられているからこそ。
「こんなにも幸福でいいものかと、思えてしまう」
噛み締めるように嬉しそうに告げる杏寿郎に、蛍は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
そこに哀しみはない。
同情されることは嫌いなのだ。杏寿郎にそれと同じ感情を向ける気もない。
ただ。
「杏寿郎は…本当に、欲がないよね…」
「む?…君がそれを言うのか?」
「ないよ。全然」
寝間着の上からでもわかる逞しく広い背に腕を回す。
胸に顔を押し付けたまま、蛍はぽそぽそと熱くなる感情を殺して告げた。
縋るようで、抱きしめるように。
自分にだけ見せてくれた十歳の幼顔も、知っていたからこそ。