第28章 あたら夜《壱》
廊下を歩む二つの足音が、やがて次の曲がり角を過ぎゆき遠のく。
二人の会話も聞こえなくなったところで、蛍は止めていた息をぷはりと吐き出した。
「っぶなかった…」
間一髪、鏡代わりにしていた硝子障子戸の先。空いた部屋へと滑り込んだのだ。
気配を殺せば、常人である千寿郎と八重美には悟られなかった。
ほーっと安堵の息をつきつつ、ふと目の前の光景を見て背筋が伸びる。
「ぁっ」
思わず零れた小さな驚きに、慌てて口を押さえ付けた。
目の前の部屋はしんと静まり返っている。
しかし耳を澄ませば、静かな、本当に静かな呼吸を繋ぐ音が耳に届く。
部屋の中央。
その目的の為に敷かれた布団の中で、すぅすぅと静かに寝入る杏寿郎の姿があった。
(しまった…此処、杏寿郎の部屋だ)
杏寿郎の寝つきは大変に良い。
そして寝起きもまた大変に良い。
機械のような正確な体内時計で、自分がこうだと決めた時間に起床できる。
寝静まっている時の寝息も微かなもので、本人の性格を体現するかのように寝相だって悪くはない。
しかしそれはよく知る杏寿郎の顔の一部のようなもの。
何度も共に就寝してきた為に、それだけが全てではないことを蛍は知っていた。
寄り添い寝入る時は、後ろから背中を包み込むように抱いて眠ることが好きなこと。
寝相は悪くなくとも、一度布団の中の足を絡ませると起きるまで離さないこと。
寝息は静かだが寝起きの声はいつもの闊達さを潜め、微睡み甘く響くこと。
とろんと半分瞼を閉じた瞳はいつもの強さを隠し、優しく柔く包むように見つめてくること。
蛍だけが知っている。
睡魔に浸りながら見せてくれる、無防備で穏やかな彼の寝姿。
(…今はすごく、姿勢良いけど)
そんな甘い朝を思い出しながら、それとは程遠い目の前の寝姿に苦笑する。
布団に入った時のそのままの姿勢であるような、天井を向き直立姿勢のまま横になっている姿。
すぅすぅと一定の感覚で静かな寝息を繋げる横顔さえ、隙がないように見える。