第28章 あたら夜《壱》
「この場でいいか?」
「え、ぁ…帰ってからで」
「そう手間のかかるものでもないだろう? なに、すぐ終わる」
「きょ…っ」
根は真面目な蛍のこと。
帰って人目のつかない所で、などと言うことは目に見えていた。
しかし杏寿郎は違う。
このどうにも溢れて止まらない想いのままに、蛍に触れてしまいたい。
ぐっと背を抱き寄せると、顔擦れ擦れに耳元へ唇を寄せた。
「接吻だけだ。そこまで身構えなくていい」
三回袖を引く。
そのサインは、接吻での精の要求。
体を重ねてまで求めるものではない。
だからこそ蛍も催促できたのだろう。
「でも此処じゃ誰に見られるか…っ」
「その心配はないようだ」
「え?」
こぽり、と気泡が空気を上る。
蛍の視界の端でゆらりと揺れる大きな尾鰭。
二人の周りをゆったりと泳ぎ舞う朔ノ夜から、こぽこぽとシャボン玉のような気泡が上がっていく。
透明なはずなのに、無数に重なるそれは周りの林の風景を遮った。
「朔…」
「大変気遣いのできる血鬼術だな」
「そんなことで褒められても…」
「蛍」
「んむ」
ぼやく蛍の唇に人差し指を当てると、にっこりと笑う。
「これ以上は野暮というものだ。ほら、」
無数に連なるシャボン玉。
月の明かりを反射させて薄く色とりどりに輝く様は、朔ノ夜の鱗のようだ。
その中心で、杏寿郎は唇に当てた指を滑らせ柔らかな頬を包んだ。
「おいで」
目の前にいるこの距離にだけ届く、とことん甘やかしてくれる声。
そこに導かれるように、ゆっくりと被さる杏寿郎の影を前に蛍は瞳を閉じた。
ざぁ、と舞い上がるシャボンの波に包まれて。