第28章 あたら夜《壱》
「おいで」
呼べば、視線は合わないのに体は素直に傍に寄る。
ゆるりと両腕で簡単に囲えてしまう華奢な体。
とん、と無防備に肩に触れた額が、甘えるように軽く押し付けられてくる。
「…ふ、(本当に)」
愛いものだ、と堪らず破顔する。
振る舞い一つ一つは美しいものなのに、何故こういう触れ合いの仕草は胸をきゅっと締め付けてくるのか。
可愛らしい以外の言葉が思いつかない。
(適わんな)
美しさと愛らしさを持ち合わせているなど、夢中にならない訳がない。
思いきり抱きしめて小さなつむじに顔を押し付けたくなる衝動を抑えて、杏寿郎は苦笑した。
「駄目だなぁ、任務中なのに…」
「む?」
腕の中で小さな溜息が漏れる。
真面目な蛍らしい言葉に、杏寿郎は空を舞う朔ノ夜を見上げた。
「そうでもないぞ。今も朔ノ夜がああして監視してくれているだろう?」
「まぁ…一応、夜の間はね。村全体を覆っているからいいけど」
「村…全体?」
「ん?」
聞き流せない単語を思わず復唱する。
つられた蛍が顔を上げて、きょとんとした緋色の瞳と重なった。
「今、村全体と」
「うん。夜はほら、何処も全部が影みたいなものでしょ? そこに朔の一部を溶け込ませてるから、村全体の敷地は朔が把握しているの」
「では、此処ではない別の場所に鬼が出たとしたら…」
「敷地内ならわかるよ。朔が」
「っそれは凄いな!?」
「え? う、うん」
急な杏寿郎の驚きと感心の声に、蛍も思わずぱちぱちと目を瞬く。
「今までにない能力を手に入れたとは思っていたが、そんな芸当ができるとは…っうむ、だが確かに」
朔ノ夜は村全体を覆う程の影を作り出せた金魚だ。辻褄は合う。
しかしそんな広範囲の術を発動させているというのに、蛍から疲労は感じ取れない。
村を空から覆った影とは違い、地面に既に存在する闇に紛れている所為か。理由はわからなかったが、目を見張る能力だ。
「他にも何かできるのか?」
興味津々に蛍の両肩を掴み問いかけてくる。
子供のような眼差しに、蛍は「ああ、うん」と流されるままに頷いた。