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いろはに鬼と ちりぬるを【鬼滅の刃】

第28章 あたら夜《壱》



「…朔ノ夜、か」


 蛍が己の術に名を付けなかったのは、羞恥の為だけではない。
 利用できるものは利用する。その意思で操っていただけで、望んで手にしたものではなかったからだ。

 それを杏寿郎も知っていた。

 その蛍が、己の映し鏡として初めて向き合った。
 初めて認めて、初めて共に抱えた。
 それこそようやく始まりなのだ。

 枷を一つ外した、彩千代蛍という鬼の。


「いい名だ」


 腰を上げ、改めて蛍の能力(ちから)に目を向ける。


「俺もその名を呼んでいいか。朔ノ夜」


 呼べば、まあるい皿のような目が向く。
 無機質なようで、不思議と目が合うと腑に落ちるように心が穏やかになる。

 こぽり、と声無き声を立てて、朔ノ夜が頭を擡げる。
 大きな体にしては、柔軟な仕草でふわりと舞い上がった。
 ひらりと鰭を揺らし、舞い踊る。

 狭き世界ではない。
 この広い世界を泳ぐ遊女のように。


「ふ、」


 見上げる杏寿郎の口元が、思わず緩んだ。


「不思議だな。術が模した形であるというのに、不思議と雅な女性のように見える」

「女の子?」

「柚霧のようだ」


 "遊女は金魚"という言葉を聞いたからではない。
 その仕草や、静かに佇む姿が、不思議とあの艶やかな夜の華である柚霧と重なった。


「…私、あんなふうに見えてたの?」

「む。いや、魚のようだとか、そういう意味ではなく…っ」


 屈んだ姿勢のまま、きょとんと見上げていた蛍の目が据わる。
 思わずあたふたと弁解しようとすれば「ううん」と彼女は笑った。


「私も、朔は不思議と綺麗に見えるの。今まで自分の影にそんなこと感じなかったけど」


 月の明かりに照らされて、色とりどりに煌めく鱗。
 天女の羽衣のように、薄く透けて見える扇のような長い鰭。


「そんなふうに見えていたなら嬉しいな」


 膝に両手を当てて、んしょ、と立ち上がる。
 明るい月の真ん中で舞う朔ノ夜を見上げて、蛍は顔を綻ばせた。

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