第28章 あたら夜《壱》
まだ少しぎこちない空気で告げる蛍の言葉に、杏寿郎も再び顎に手をかけ頷いた。
「では何故サクと?」
「何度も呼ばないで、恥ずかしいから」
「呼ぶ為の名だろう? それに主の蛍がそんなに羞恥していると、名付けられた影魚が気の毒だ」
「……」
今度は両手で顔を覆う蛍。
影鬼という名前は、元々杏寿郎が命名したものだ。
蛍自身は、自分の術に名など付けなかった。
「…私、名前付ける才能ないから」
「前にも同じようなことを言っていたな」
だから名付けないのだと、己の術に対してはあっさりとした反応で。執着のようなものは見せていなかった。
「ならば尚更、そんな君が付けた名だ。少なからず意味が在るのだろう?」
優しく問えば、顔を覆っていた手がそろそろと下に下りる。
口元を隠したまま、見上げた蛍の目が幼子のように迷い揺らぐ。
あー、だとか。うーん、だとか。迷いに迷い漏らした結果、爛々と興味の目を光らせる杏寿郎を躱す方法は見つからなかったのだろう。
渋々と辺りに落ちていた手頃な棒きれを拾い上げると、砂地の地面を見つけて手で払った。
「あの、ね」
「うむ」
二人して屈んで砂地を覗く。
ざくざくと蛍がそこに綴ったのは、一つの名だった。
〝朔ノ夜〟
「…さくのよる?」
「大体そんな感じ。私は"さくのよ"って読んでる」
「成程。これが影魚の正式名なのだな」
聞けば確かに、愛犬や愛猫に付けるような名とはまた少し異なる。
「ほら、呼吸技にも壱ノ型、弐ノ型って命名するでしょう?」
「だから朔"ノ"夜というのか」
「うん」
「して、その意味は?」
土佐錦魚の見た目を模すような名ではない。
となれば別の意味がそこには在るのか。
問えば、蛍は未だ耳をじんわり染めたまま視線を綴る文字に落とした。