第27章 わが情(こころ) 焼くもわれなり 愛(は)しきやし
どれ程の時間、歩いていただろうか。
沈黙を抱えたまま歩み続けた杏寿郎が、不意に足を止める。
其処は蛍が一度も訪れたことがない場所だった。
「此処だ」
「此処って……お蕎麦屋さん?」
蕎麦屋の看板を見上げ、店を見渡す。
どう見ても、極々普通の蕎麦屋だ。
カラリと杏寿郎が引き戸を開ければ、やはり中は机と椅子が並ぶ飲食店の風景だった。
「らっしゃい!」
「二人だ、頼む」
「あいよォ」
「おや。誰かと思えば若旦那」
店内へと踏み込めば、先客がいた。
ずずっと蕎麦を啜る手を止めると、杏寿郎と蛍の並ぶ姿を見てにやにやと目を細める。
「若旦那」と呼ぶ男は、蛍は一人しか知らない。
瑠火の墓参りに出向いた際に、杏寿郎と蛍の関係に強く興味を示していた男だ。
「二人で神幸祭でも観に来たのかい? 今日は準備が主だから、あんまり派手なことはやらないよ」
「いや。夜道の散歩をしていただけだ」
「…こんばんは」
男と目が合い、頭を下げる。
そんな蛍にまじまじと興味深い視線を向けながら、男は頬杖を着いて笑った。
「やあ、こんばんは。煉獄の旦那のお嬢さん。名前を訊いても?」
「彩千代蛍と申します」
「蛍さん。可愛らしい名前だなぁ」
「ぁ…ありがとう、ございます」
名前に愛嬌があるなどと、褒められたことは余りない。
もう一度蛍が頭を下げれば、ぐっと握られた手を引かれた。
「蛍。俺達も座ろう」
「うん。でも杏寿郎、さっき夕飯食べたばかりじゃ…」
「なに。蕎麦くらいなら軽く入る!」
「…流石」
「お客さん方、お席へ案内しますねー」
メニュー表を手にした店員に案内され、手頃な席に向かい合って座る。
渡されたメニュー表からさくさくと注文をする杏寿郎の姿は、どこをどう見ても飲食店に訪れた客だ。
(稀血、貰うんじゃなかったのかな…)
実弥を同行させないところ、てっきり既に稀血の採血は終えているのだと思っていた。
しかしそんな素振りを見せない杏寿郎に、ひたすらに頸を傾げてしまう。
「──以上だ。よろしく頼む!」
「はーい。ご注文承りましたぁ」