第26章 鬼を狩るもの✓
「殺してない。だから大丈夫」
「寧ろ蛍の方が重症になっていないかっ? 何故こんなことを──」
「テンジの分だから」
慌てて腰を落として伸ばす杏寿郎の手が、蛍の額の前で止まる。
「全然足りないけど。あの子を利用して痛ませた分を、返したかっただけ」
「…自分の恨みではなかったのか」
てっきり己の恨みつらみをぶつけたのだと思っていた。
そう問えば、血を拭うこともなく蛍の視線が不意に下がる。
「…私の分は、杏寿郎が返してくれたでしょ」
与助の怪我は、杏寿郎が負わせたものだと知った。
「意味のない暴力なんて絶対にぶつけないし、不毛な感情も自分の中で呑み込める杏寿郎だから。私の身の上を聞いただけで、見ず知らずの相手に拳なんて向ける人じゃない」
だからこそだ。
だからこそ、それだけで十分だった。
「それだけ私の思いを汲んで、私の心を拾ってくれたから」
「…これは、俺のただの私欲塗れの身勝手さだ。正しい行いではない」
「…正しさって、なに?」
ゆっくりと、刈られた田畑を見下ろしていた蛍の視線が上がる。
「この世が規律で創られた世界なら、鬼の私はこうして生きていない。…私しか抱えていなかったものを、杏寿郎は一緒に抱えてくれた。心を繋いでくれた。あの時誰かに零すことすらできなかった思いを、涙を、拾ってくれたのは杏寿郎なの。……遅くなんか、ないんだよ」
斬られた腕が僅かに上がる。
感じるはずもないのに。その先にあるはずだった蛍の手が、杏寿郎の頬に触れたように見えた。
「時間軸なんて関係ないの。立っている場所が違っても関係ない。一度死んだ私を、時間をかけて見つけ出して、一つ一つ拾い集めて、取り戻してくれたのは杏寿郎なの」
いつも蛍の助けを求める声を、拾い損ねた。
肝心な時に、傍にすらいなかった。
諭すように淡々と告げてきた童磨の重石のような言葉達が、杏寿郎の中で薄れていくようだった。
「この世の正しさじゃなく、自分の心に正しくいてくれた杏寿郎だから」
目の前の彼女が、そう告げるだけで。