第25章 灰色万華鏡✔
柔く、するりと指先をすり抜けていく。
知らないようで、知っている感覚。
きっと自分はそれに触れたことがある。
「…〝君〟なのか…?」
名前は知らない。
姿も朧気でしかない。
けれども、その歌声を知っていた。
指先を撫でる柔らかな繊維も。
いつ。
何処で。
なんの為に。
理由は何もわからない。
それでも確かに、此処に〝君〟はいたのだ。
「…っ」
ふらりと一歩、縁側へと踏み出す。
指先を撫でた感覚は、もうない。
縁側を進んでも、見えない何かに触れることはない。
それでも確かに、此処には何かが在った。
幽霊などの類とは思えなかった。
そんな心霊現象ではないと、己の心が直感していたからだ。
恐怖はない。
警戒もない。
あるとすれば、ただただ求める思いだけ──
「…?」
辺りを見渡す杏寿郎の視界の隅で、何かが揺れた。
頸を曲げて違和感を覚えた先に視線を向ける。
其処にあったのは開かれた障子。
上半分は、薄い和紙を張ったものだ。
下半分は薄い硝子を仕込んだもので、障子硝子戸となっている。
下の硝子には、陽の暮れて暗くなった中庭が映し出されていた。
「なん」
はずだった。
「だ…?」
暗い硝子に映っているのは、煉獄家の門と中庭。
それを、背後にして縁側に座る人影。
此処に立っているのは杏寿郎一人しかいない。
しかし硝子には、確かに見知らぬ人影が映っていたのだ。
何かを求めるように、顔を上げて振り返っている。
咄嗟に屈んで、杏寿郎が硝子に視線の高さを合わせると──それと目が合った。
「っ」
縦に割れた鬼のような瞳孔。
結わずに流した髪の毛は、陽光で燃え尽きたものと同じきめ細やかなもの。
覇気のない表情が、哀しげにこちらを見ている。
それは見知らぬ女の姿だった。
「君…ッ」
どくりと心臓が深く跳ね上がる。
見覚えはない。
なのに、どくどくと心臓が煩く脈打つ。
これがあの〝君〟なのか。
思わず呼びかける。
しかし硝子に手を付いても、顔を近付けても、硝子に映る暗い人影は反応を示さない。