第25章 灰色万華鏡✔
ならば近くにあるはずだ。
手の届かなかった、あの。
(これなら帰れる…ッ)
煉獄屋敷も。
「ほたる?」
覚束ない様子で踏み出した足が、不意に駆け出す。
離れた手の先──テンジが呼ぶも、蛍は振り返らなかった。
駆ける。
「っは…はぁ…!」
逸る気持ちが、すぐには荒立たない息を乱した。
それでも早く早くと急かす心のままに、足を前に突き動かす。
鈍い。もっと速く。
駆けて。もっと駆けて。
宙を飛ぶ程に、地を蹴り駆け抜けた。
真っ直ぐな小道を進み、閑静な家並みを通り過ぎ、高い雑木林を抜ければ見えてくる。
家の主を守るように、ぐるりと覆い立っている塀。
そして古くも趣のある長屋門が。
「っ…杏寿郎!」
転がるように門を潜った。
挨拶よりも先に名を叫んだ。
玄関の戸には鍵がかかっておらず、簡単に屋敷内へと上がることができた。
槇寿郎に会ってしまったら、という一抹の不安はあったが、すぐに杏寿郎に会いたいという想いが上塗りをした。
「千くん! 杏寿郎ッ!」
長い廊下。
仏壇や本棚の置かれた畳部屋。
整理された台所に浴室。
足音を立てて、屋敷内を駆け回る。
襖を勢いに任せて開き、あらゆる場所を見て回った。
しかしどんなに呼んでも、応えてくれる声はない。
(誰もいないの…っ?)
杏寿郎や千寿郎が外出している偶然はあっても、同じ時刻に槇寿郎が家を空にするとは考え難い。
そう考え、思い切って槇寿郎の部屋へと足を向けてみたが結果は同じだった。
ぽっかりと、人の気配だけ落としてきたかのように消えている。
「…なんで…」
主を失ったかのような広い広い屋敷は、人気がないと不穏にさえ感じた。
彼らがいたから、この家は賑やかだったのだ。
「此処も、元の世界じゃない…?」
人気のない台所に立つ。
並べられた食器や鍋類は埃を被ってなどいない。
つい最近まで使用されていたような生活感は残っている。
土も、水も、植物も存在している。
家も、道具も揃っている。
ただ人間だけが、いないのだ。