第24章 びゐどろの獣✔
「…姉上…」
荒れた台所の床に座り込んだまま、呆然と千寿郎が名を呼ぶ。
しかしいつも一つ返事で向けられていた、柔らかな声は聞こえない。
(どうしよう…どうしよう、姉上が…っ)
いくら人智を超えた能力を持っていたとしても、蛍は鬼だ。
夕日を浴びただけで、ああも無残に肌を焼いていたというのに。
あんな状態で、外をまともに歩けるはずもない。
「何処へ行く」
ふらふらと立ち上がる千寿郎を、冷たい槇寿郎の声が制す。
「お前は部屋にいろ。俺が良いと言うまで出てくるな」
「ぇ…で、でも」
「口答えするなッいいか、杏寿郎にも俺から話す! お前は口を出すな!!」
「ッ…」
槇寿郎の強い圧を前にして、びくりと幼い体は立ち竦む。
(…なんで…)
歯を食い縛って。拳を握って。
その目は訴えかけるように槇寿郎を見上げた。
(なんで…ッ姉上は、何もしていないのに…ッ)
杏寿郎から聞いていた。
蛍は鬼でありながら、姉以外の人間を喰らってはいない。
自分達には想像もできない苦痛を抑え込んで、少量の血のみで生きている。
希望を持って何が悪い。
一度人間に殺された身でありながら、再び人間を愛せるようになったのだ。
その想いがどれだけの覚悟で持ち得たものか、知りもしない癖に。
「父上は…姉上の、何を…っ」
「なんだ。本気で口答えするつもりか」
何を知っているのか、と。
告げたくても告げられない。
いつもそうだ。
母のいない寂しさから常に引き上げてくれた、父の無情の圧から常に守ってくれた、兄を否定された時も。抗いの言葉一つ向けられなかった。
いつも下を向いて、行き場のない拳を握るばかりで。
今もそうだ。
足を踏み出すことさえできない圧に、千寿郎は歯を食い縛り俯いた。
(姉上…ッ)
杏寿郎が戻れば、なんとかなる。
兄への信頼は千寿郎も揺るぎないもので納得はできたが、問題は追い出された蛍の方だ。
杏寿郎が戻る前に、その身が太陽の下で朽ちてしまったら。
兄の心に穴を開けるだけでは済まない。