第23章 もの思へば 沢の蛍も 我が身より✔
ガタタン、ゴトトンと車輪が呻る。
窓ガラスに貼り付いていた体を離すと、蛍は前を向いて座り直した。
(最後、柚霧って呼ばれた気がする…)
声は届かなかったが、天元の口元は見えた。
何かを紡いだ唇は、最後に蛍の名前ではなく去る花街での源氏名を呼んでいたような気がした。
気の所為かもしれないし、気の所為ではないかもしれない。
ただどちらにしろ嫌な気はしなかった。
心の底を打ち明け合った杏寿郎相手ではない。
それでも抵抗がなくなったのは、柚霧をしかと自身で認められたお陰だろう。
(たった一日半なのに…色々あったなぁ)
何日も経ったようで、数時間にも感じる。
それだけ蛍にとって様々なことが目まぐるしく起きた場所だった。
実際の出来事だけでなく、何より心の内側で。
「…初めてだなぁ」
「何がですか?」
遠のく花街を見送りながら呟いた蛍の声を、隣に座る千寿郎が拾い上げる。
「あの街に、また行きたいって思えたこと」
花街から千寿郎へと視線を移し変えて笑う。蛍のその言葉に、ぱっと幼い顔は花を咲かせた。
「行きましょう、また! 姉上が行きたいと思うなら、私がいつでもお供します」
小さな手が、蛍の掌を握る。
初めて聞いたのだ。
蛍の口から、渋り続けていたその思いを。
幼くとも、蛍の過去に触れた身。
蛍にとって花街がどんな場所なのか、千寿郎も心得ていた。
それでもまた訪れたいと思えたのだ。
また会いたいと思える人ができた。
「もし松風さんに怒られた時は、私も兄上と一緒に謝りますから」
「そんな、千くんが怒られる理由なんてなんにもないよ」
「あります。だって私は、姉上の義弟です」
小さな両手が蛍の掌を包む。
胸元に引き寄せて、兄とは似つかぬ静かな声で、しかし凛と強い意志を響かせた。
「家族ですから」
当然のようで当然ではない。
蛍にとって奇跡のようなその響きに、胸は熱くなるのだ。