第23章 もの思へば 沢の蛍も 我が身より✔
それでも今朝。
花街が寝静まり初めてまともだと感じられる空気を吸い込む最中に、見たもの。
『おはようございます、松風さん』
『澄み切る空が気持ちいい朝だな!』
不覚にも、綺麗なものだと思えてしまったのだ。
まるで憑き物が落ちたかのようにはにかむ蛍の傍らで、屈託なく杏寿郎が笑う。
二人を取り巻く空気だけは、花街に澱(よど)み濁ってなどいなかった。
決して平坦ではなくとも、そこでしか見られない景色があると知ったのだ。
「うむ。では、お松殿。この街での出会いに感謝する!」
「はんっ銭を落としてくれるにしても、あんたらみたいな私情をあれこれ持ち込む客はもう願い下げだよ。柚霧っあんたももうこの街に戻ってくるんじゃないよっ」
「えっ」
「身請けするってのはそういうことだ。此処はあんたを育てた街であっても、故郷じゃあない」
「でも…っ」
「でもも何もありゃしないよ。帰りたい場所ができたんだろう? なら余所見なんかせずに抱えたもんだけ真っ直ぐ見てな」
「…っ」
竹笠の下の瞳が揺れる。
ぴしゃりと跳ね返す松風の声には、それだけ背を押そうとしてくれる思いが詰まっている。
そんなこともわからない程、短い付き合いではない。
「塔婆を見ただろう。月房屋の柚霧は死んだんだ。あんたはこの松が太鼓判を押した、この松の遊女だよ。男の一人や二人、魅了できないはずがない」
言葉にならず詰まらせる蛍に、反して松風は強い表情(かお)で笑った。
「その旦那を決して離すんじゃあないよ。精々あんたの魅力で骨抜きしてやんな」
「っ…松風、さん…」
「それに旦那もさ」
「む?」
「銭じゃなくその心で柚霧を買ったんだ。よって買戻しは不可だよ。責任持って、その子の末まで面倒見ることだね」
「末、か…ふっ…はははは!」
悠久の時を生きる、鬼の末路まで面倒を見ろと言う。
蛍の事情を知らない松風だが、啖呵を切るような闊達さに思わず杏寿郎は声を上げて笑った。