第23章 もの思へば 沢の蛍も 我が身より✔
「おはよう。…いつから起きていたんだ?」
「ほんの少し前だよ。身形を整えてたの」
告げる蛍の身に付けているものは、昨夜墓地に出かけた時と同じ宿の着流しだった。
鬼である故か、疲労も名残も感じさせない。
笑いながら目の前の杏寿郎の着流しを整えていく蛍は、普段の彼女そのものだ。
「朝方だけど、この時間帯なら松風さんも起きてるだろうし。お湯を貰えるか訊いてみる? お礼も一度言っておきたいし」
「…うむ」
「杏寿郎?」
掛襟を丁寧に直す手を、そっと上から被せるように握る。
きょとんと見上げてくる蛍の視線を真正面から受け止められず、杏寿郎は俯いた。
少しだけ、寂しさを感じてしまった。
昨夜あんなにも求め合った、杏寿郎だけの金魚だと謳った彼女で、いないだけで。
「まだ疲れてる? もう少し休む?」
「いや、大丈夫だ。ただ…」
「うん」
「……歌」
「え?」
「先程、何か口遊んでいたようだったが。どこか聞き覚えのある歌だった」
柚霧が恋しい。
そんなことを口にできるはずもなく、杏寿郎はふと先程聞いた声を思い出した。
柚霧に似ていたように思う。
憂いを帯びるような、儚く優しい歌。
「あれはね、子守歌なの」
「そう…だったか?」
「実際は、ただの童謡だけどね。幼い頃から、姉さんがよく歌って聞かせてくれていたものだったから。私には子守歌なの」
"金糸雀(かなりあ)"という名の童謡だと告げると、蛍は昔を思い出すように声色を緩ませた。
「花街でね、よく歌ってたの。口遊んでいれば姉さんを思い出せるから。姉さんを思えば、私は歩み続けられたから。…私を支えてくれた歌なんだ」
「君を」
「うん」
はたりと、足元を見ていた杏寿郎の目が開く。
ゆっくりと顔を上げる。
今度こそ正面から捉えた女の顔は、普段見慣れた顔とは違っていた。
「柚霧(わたし)を、支えてくれた歌だから」
目尻を柔く細め、慈しむように。
微笑むは、艶やかな色こそ纏ってはいないが、確かにその世界を知っている顔だった。